早大ドラ1“三羽ガラス”の背中を追った左腕の転機 武器となった“直伝”の変化球

2010年秋季リーグを制し記念撮影する早大・斎藤佑樹、福井優也、大石達也(当時)【写真:共同通信社】

静岡商から早大に進んだ大野健介さん、1年先輩には“三羽ガラス”がいた

「ほほ笑み王子」の愛称で親しまれたヤマハの大野健介さんが昨年末でユニホームを脱いだ。静岡商2年時の2006年夏の甲子園に出場し、早稲田大学4年の秋には最優秀防御率のタイトルを手にした。早大の1学年先輩には楽天の福井優也投手、西武の大石達也2軍投手コーチ、元日本ハム・斎藤佑樹さんの「三羽ガラス」がいた。プロへ進む選手のレベルを肌で感じ、変化球も教わったという。

プロ野球選手を夢見て、3人の先輩の背中を追っていた。昨年12月で現役を引退したヤマハの大野健介さんは早大時代の記憶をたどる。

「大石さんの真っすぐは次元が違って、誰も捉えられませんでした。斎藤さんは変化球がすごかった印象。福井さんも1つ1つのボールの質が高かったですね。先発に割って入りたいと必死についていきましたが、壁は高かったです」

多くのプロ野球選手を輩出している静岡県の伝統校・静岡商で1年秋からエースだった大野さんは、2年生だった2006年夏に甲子園に出場した。身長170センチと小柄ながら、キレのある直球と強気の投球スタイルで聖地を沸かせた。マウンド上で見せる愛らしい笑顔から「ほほ笑み王子」の愛称もつけられた。

高校卒業後、早大に進んだ大野さんの1学年先輩には「三羽ガラス」がいた。楽天・福井、西武・大石2軍投手コーチ、昨年引退した斎藤佑樹さん。3投手とも早大4年の秋にドラフト1位で指名されている。大野さんはプロ入りする選手のレベルと自身の能力の差を痛感していた。先輩から1つでも吸収しようと、変化球についてアドバイスを求めたという。

早大卒業後、ヤマハで10年間プレーした大野健介さん【写真提供:ヤマハ】

斎藤佑樹さんからツーシーム、楽天・福井からスライダーを習得

多彩な変化球を操る斎藤さんからはツーシームを教わった。変化球の習得は得意ではないと語る大野さんだが、斎藤さん直伝の球種は新たな武器になった。「大学4年の時に一番思い通りに投げられたのがツーシームでした。1球で内野ゴロに打ち取りたい時や、カウントを整えたい時など、投球の軸になっていました」。握り方や投げ方のコツを教わり、自分の持ち球にした。

スライダーは福井に教わった。淡々とアドバイスする斎藤さんと対照的に、“兄貴肌”の福井は丁寧に解説。助言通りに縫い目にかける指の位置を変えると、やや苦手意識を持っていたスライダーが改善した。変化の幅を変える方法も教わったという。大野さんは「福井さんのスライダーは1度浮き上がってからブーメランのように曲がっていました。回転数が多くてパワーがあるスライダーでした。ドラフト1位でプロに行く先輩に直接教えてもらえる恵まれた環境でしたね」と振り返る。

大野さんは早大4年の時、秋のリーグ戦で防御率1.53の好成績でタイトルを獲得している。プロ志望届を出すか迷った時期もあったが、頭をよぎったのは3人の先輩の存在だった。プロ入りする投手の力を知っているからこそ、社会人でレベルアップしてプロを目指す道を選んだ。

ヤマハに所属してから最初の3年ほどはプロを目標に掲げた。だが、壁は厚かった。ヤクルトの石山泰稚投手、中日の鈴木博志投手、巨人と楽天でプレーした池田駿さんらの強力投手陣に割って入れず、中継ぎやワンポイントでの起用が続いた。「都市対抗野球の初戦で先発を任されるくらいではないと、プロで活躍はできないと考えていました。社会人は選手の平均値が高くて、自分より能力の高い選手がたくさんいました」。大野さんは「ヤマハで日本一」に目標を修正した。

夢だったプロ野球選手にはなれなかった。それでも、ヤマハで10年間プレーし、32歳まで大好きな野球を続けられた。大野さんは「悔いはないですね」と充実感を漂わせる。「三羽ガラス」の背中を必死に追いかけ、変化球に磨きをかけた早大時代は、野球人生を振り返る上で欠かせない時間だった。(間淳 / Jun Aida)

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