【インタビュー】元オリックスの青山大紀氏 今は日本一のお肉を扱う焼肉屋の店長!

【インタビュー】元オリックスの青山大紀氏 今は日本一のお肉を扱う焼肉屋の店長!

智辯学園(奈良県五條市)で春夏甲子園2度出場した青山大紀氏。
その後はトヨタ自動車に入社後、2015年のプロ野球ドラフト会議でオリックス4位で指名を受ける。
プロ生活4年間、その後の人生、智辯学園での話などを伺った。

ー青山さんは大阪出身ですが、なぜ中学から奈良県の葛城JFKボーイズへ?

私が小学5年生の時に、当時指導いただいていた安井コーチが八尾フレンズから葛城JFKボーイズに移動することになりました。
そして、私が小学校卒業後に安井コーチからお声がけいただき、お世話になることになりました。

ー葛城JFKボーイズから智辯学園に進学されましたが、思い出に残っている試合はありますか?

やはり2年生夏の甲子園での横浜高校戦ですね。
現日本ハムの近藤健介選手などがいたのですが、9回に智辯学園が8点取り逆転勝ちしたのでよく覚えています。

それと同じくらい覚えているのは3年最後の夏、奈良県大会準決勝の畝傍高校戦ですね。

ー正直、あそこで負けると思っていましたか?

全く思っていませんでした。
ただ、その前の年の秋季大会も畝傍高校と戦い、接戦で何とか勝ったんですよね。
相性の問題もあったとは思うのですが、僕たちは勝たないといけないという思いがあったので、あれが高校生活最後の試合になるとは思わなかったですね。

夏、春と連続で甲子園出場してたので、あそこで終わるのはモヤモヤした感じが残りましたか?

めちゃくちゃありましたね。
甲子園に出場し、日本代表にも選ばれることを目標にしていましたので。
悔いは残っていますね。

ー智辯学園からトヨタ自動車へ入社されましたが、なぜ社会人の道を選ばれたのですか?

プロ志望届は出していました。
その時に3位までに指名されなかったら、社会人へということを考えていました。

ー青山さんは高校の時にバッティングの成績もよかった(甲子園通算5試合 20打数6安打、6打点)ですが、ピッチャーへの思い入れが大きかったのですか?

実はドラフトが終わってからは、社会人では野手で行こうと思っていました。
自分では野手の方が向いていると思ったので。

ただ、高校時代プロのスカウトの方々にはピッチャーで勝負したいです!と言っていったのが、トヨタ自動車の関係者にも耳に入っていたようで、ユニフォームの採寸を測る際などにピッチャーの道具などをそろえていただいており、その流れでピッチャーを続けることになりました。

ーすごい流れですね笑。2015年にドラフト4位でオリックスに入団されることになりましたが、当時指名された時はどういった思いでしたか?

トヨタ自動車でそこまでの成績があげられてなかったですし、試合にも出られていなかったので4位だと思わなかったです。

当時は中日に3位で指名された木下拓哉捕手がいて、「おめでとうございます!」といって、次はチームメイトの河合完治選手が指名されるのだろうと思っていましたので。
木下さんの名前が呼ばれて、下位で名前が呼ばれるかもしれないと思っていたので、そろそろ準備しようかと着替え始めていたところ、自分の名前が呼ばれたので、慌てました。
驚きもあったのですが、うれしさのあまりに手が震えて、Yシャツのボタンをうまくとめられなかったですね。

ープロの世界に入ってみていかがでしたか?

4年間プレーしたのですが、一番悔いが残っているのが2年目のキャンプですね。
第1クールが終わって、一軍に呼んでいただいたんですね。
調子はかなりよかったです。

一年目のシーズン後にU23の日本代表に選んでいただいたり、ウインターリーグに参加した際に、自分の中でつかんだものがあったんですね。
ただ、怪我をしてしまい、その後はなかなか一軍に上がることができなかったですね。

ーどういった怪我だったのですか?

首を痛めました。
朝起きて、お風呂で頭を洗っていると、急に首に痛みが走って。
最初は寝違えたのかな?とくらいでしか思っていなかったのですが、どんどん痛みが増してきて、病院にすぐに行きました。

病院ではぎっくり腰と同じような症状だと言われました。

ー残念ながら4年でプロの世界を引退することになりましたが、悔いはなかったですか?

悔いはたくさんありますよ。
例えばさきほど言った首の怪我を予防できなかったのかとか、もっと練習しておけばよかったなとか。

やはり一軍で活躍して何千万、何億もらってこそプロ野球選手だと思っていたので。
それが小さなころからの夢でしたからね。

ー多彩な変化球をお持ちだったので、私は先発投手の柱になれる存在なのかと思って現役時代をみておりました

プロの世界でも、変化球は他の選手に負けていなかったと自負しています。
ただ、他の選手は真っすぐの質がすごいです。
特にパ・リーグは150キロが当たり前みたいな世界ですから。

3年目でしたかね。
現状を変えないとと思い、初めてウエイトトレーニングを取り入れてみたんです。
そうするとMAXは149キロでしたが、球速のアベレージが上がりました。
もっと早めにウエイトトレーニングしとけばと思いましたね。

ー昨年オリックスが優勝しましたが、感想はいかがですか?

やはりうらやましかったですね。
あの中で野球がやりたかったなと。

注目されたいと思うタイプですので、うらやましいですよね。

ー引退後はどのように過ごしていましたか?

店舗施工の営業などをしておりました。
その後に今の『うしすき』の社長に声をかけていただき、今は焼肉屋の店長をしております。

自分の中でスポーツの道と同じくらいやりたかったのが飲食業界だったのでありがたいです。

ーオリックスを戦力外になった後、独立リーグなどから声がかかることはなかったのですか?

ありました。
確かにそこで頑張ればプロの世界に戻れる可能性もあったと思います。

ただ、トライアウトを受けた後に、NPBの球団から声がかからなかった時になえてしまった感があったんですよね。
野球をやる意味が何かわからなくなってしまって。
あとは、野球をやめてからの方が人生は長く、いずれ社会に出るなら一日でも早く出た方がいいかなと思い、今の道を選びました。

ー現在は北新地の『カウンター焼肉 うしすき』の店長をされております。このお店はどういったお店ですか?

北新地にしてはリーズナブルな価格で、お肉を楽しんでいただきたいという思いでお店をしております。
カウンターだけのお店です。
品評会で日本一になったお肉を扱っているので、ぜひ皆様お越しください。

『カウンター焼肉 うしすき』記事はこちら!

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