「親子の縁を切ってください」 ミャンマーで相次ぐ「勘当」、軍政に抗議するため苦渋の決断

2021年2月8日、ミャンマー・ネピドーでデモ隊に放水する警察当局(ロイター=共同)

 「アジア最後のフロンティア」とうたわれたミャンマーで昨年2月、国軍がクーデターを起こし、弾圧で死亡した市民はこれまでに1500人を超えた。命を脅かされ、海外に出たミャンマー人は各地で抗議の声を上げ続けているが、残った家族が迫害を受ける恐れは拭えない。このため家族がやむを得ず勘当し、それを周知するために新聞広告に載せるケースも少なくない。東京で抗議行動をするソーティンナインさん(52)もその一人。日本に「2度目の亡命」をし、祖国に残った父親に危害が及ばないよう断腸の思いで親子の縁を切った。「生きていく上で家族は一番大切な存在。軍政は愛する人との絆も無理やり切ってしまう」。軍政に翻弄されながらも、民主化に向けて奮闘する姿を追った。(共同通信=岩橋拓郎)

 ▽「8888」の記憶

 「われらの大使館をわれらに返せ!」「不当に拘束している人全員を解放しろ!」。1月中旬、東京都品川区にある在日ミャンマー大使館前に約100人のミャンマー人や支援者らが集まり、シュプレヒコールを繰り返した。反独裁を意味する3本指を掲げたソーティンナインさんの姿もその中にあった。「何も悪いことをしていない仲間が殺されている。こんなにひどいことはありませんよ」。熱っぽく語ると、吐息が白くなった。

 ミャンマー北部ザガイン地域の出身で、父は農業大学の元学長、母は高校教師だった。ラングーン工科大(現ヤンゴン工科大)に在学中、民主化活動のうねりを経験することになった。

 1988年8月8日。当時の独裁政権の打倒を掲げた民主化運動がミャンマー全土に広がり、学生や会社員、僧侶らさまざまな職業、階層の人々が参加した。実施日にちなみ「8888」と呼ばれる大規模な民主化運動は、9月には国軍の弾圧によって鎮圧されたが、市民数千人の命が奪われたといわれる。

在日ミャンマー大使館前で行われた、軍政に反対するデモ活動=1月15日、東京都品川区

 ラングーン工科大も例外ではなかった。学生デモ隊と治安部隊が衝突し、治安部隊の銃撃で学生1人が死亡した。ソーティンナインさんは「国民を守るべき軍が国民を殺していた」と当時の衝撃を語る。弾圧は容赦なく、学生団体の幹部として活動していた自身も治安部隊に拘束されてしまう。

 この時は運が味方した。治安部隊の責任者が母の教え子だったのだ。母が責任者に釈放を求め、政治活動にはもう関わらないとの条件付きで認められた。とはいえ、国軍の強権化はとどまるところを知らない。「テレビで放送されるのは国軍のニュースばかり。軍歌も流れていました」。国軍が独裁色を強める間に、ミャンマーの経済状況も医療も世界最低レベルに落ち込んだ。

 ▽19年ぶりの祖国

 大学卒業後、語学学校で日本語と英語を学んでいたが、いつまた軍政の弾圧対象になるかもしれず、生計を立てるのも厳しい。海外で働きたいとの希望が芽生えていた。93年、ミャンマーに取材に来ていた日本の新聞記者と知り合ったことが転機となった。この年のうちに隣国タイの首都バンコクに移り、日本の新聞社の助手として働き始めた。

 日本との縁がさらに強くなる出来事もあった。交際していたミャンマー人女性が、日本の文部省(当時)の奨学金で千葉大に留学することが決まったのだ。それに合わせて来日したのは96年。自身の安全のためでもあった。学んできた日本語を生かして家庭教師や飲食店でのアルバイトで生計を立てた。歌手、俳優として活躍するミャンマー出身の森崎ウィンさん(31)は教え子の一人だ。

在日ミャンマー大使館前で行われた、軍政に反対するデモ活動=1月15日、東京都品川区

 不法滞在状態となっていたが、2007年に難民認定申請が認められた。自動車部品販売業に従事し、日本での生活が軌道に乗っていた11年、ミャンマーが大きく動きだした。軍政から民政に移管し、当時のテインセイン大統領が演説で、海外にいるミャンマー人に国造りのため戻ってくるよう呼び掛けた。ソーティンナインさんはこれに呼応し、帰国する決意を固めた。「新生ミャンマーの礎になりたかったのです」

 12年に帰国し、19年ぶりに祖国の土を踏んだ。期待通り、民主化は着実に進んでいった。テインセイン政権は欧米との関係改善に取り組み、経済制裁の大半は解除された。経済活動が活発になり、ソーティンナインさんは国連機関やJICA(国際協力機構)、日系企業などの通訳として働いた。

 15年の総選挙ではアウンサンスーチー氏(76)が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、スーチー氏は16年、事実上の政権トップである国家顧問に就任。20年の総選挙でもNLDが地滑り的な勝利を収めた。

 独裁が続いたミャンマーに民主主義が根付くかに見えた。しかし国軍は総選挙で不正があったと主張し、21年2月のクーデターで実権を奪取した。スーチー氏とNLDの台頭に危機感を覚えたためだと指摘される。民主主義を謳歌しようとした「ミャンマーの春」は、あっけなく終わった。

 ▽涙の絶縁

 国内各地に展開した治安部隊は市民に銃口を向け、徹底的な弾圧を加えた。ミャンマーの人権団体によると、弾圧による死者は今年3月1日時点で1589人に上る。

ミャンマー・ヤンゴンで国軍のクーデターに反対するデモをする人々=21年7月14日(ゲッティ=共同)

 ソーティンナインさんの周囲でも拘束される人が相次ぎ、身の危険を感じて亡命を決意。21年10月下旬に日本にたどり着いた。搭乗した航空機がミャンマーを離陸する直前まで「私が乗っていることが発覚して、拘束されるかもしれないとずっと不安でした。心臓の音が周りの人に聞こえるんじゃないかというくらい緊張しっぱなしでした」と振り返る。

 出国の3カ月ほど前、90歳の父親の家を訪れた。日本に行けば、民主化運動に身を投じれば、もう一生会えないかもしれない―。覚悟を決め、切り出した。「お父さん、親子の縁を切ってください」

 ソーティンナインさんは取材に「大好きなお父さんです。絶縁なんて簡単にできることではないです」と話すと、大粒の涙をぼろぼろこぼした。「でも私が民主化に向けた活動をしていたら、迫害される恐れがある。危険が及ばないように法律的に父子の縁を切ることにしたのです」

 民主化運動に参加していた1988年にも絶縁を申し出たことがあったが、この時は断られた。しかし今回、父は「以前と比べても国軍はあまりにひどい。日本で頑張れ」と背中を押してくれたという。

 ▽相次ぐ勘当、「苦渋の決断」

 

在日ミャンマー大使館前のデモ活動では、寒空の中、参加者が抗議の三本指を掲げた=1月15日、東京都品川区

ミャンマーでは、本人に代わって親族が拘束されたり、財産を没収されたりすることがあり、国軍に目を付けられないように親が子供を勘当し、国営紙などに広告を載せるケースが相次いでいる。サッカーのミャンマー代表として昨年5月に来日し、試合で3本指を掲げたピエリヤンアウンさん(26)も今年2月、父親から絶縁するとの広告を地元紙に出された。

 広告には「息子の度重なる背信に、親子の縁を切ることを決めた」と記されていたが、日本に亡命し、既に難民認定されているピエリヤンアウンさんは取材に「父親が身の危険を感じ、苦渋の決断をしたと理解している。愛する息子を勘当せざるを得なかった父親の気持ちを思うと心が痛い」と語った。

 ▽戻れない祖国、会えない家族

 ソーティンナインさんは再び住み始めた日本で、民主派でつくる挙国一致政府(NUG)への支援を取り付ける活動に注力するほか、ミャンマー大使館前や外務省前での抗議デモに参加したり、大学の講義でミャンマーの現状を学生に伝えたりと精力的に活動している。

ミャンマー・ヤンゴンで、治安当局とにらみ合う抗議デモ参加者=21年2月9日(ゲッティ=共同)

 クーデターから1年余り。日本にいるミャンマーからの留学生や技能実習生たちの大半は、滞在期間が過ぎても帰国していない。軍政が支配する国に戻りたくないし、戻れば迫害を受ける恐れがあるからだという。

 「ミャンマーの未来を支える人たちが祖国に戻れず、家族に会うこともできないのです」。最愛の父に再び会えるかどうか分からないソーティンナインさんが言葉に力を込めて訴えた。「日本政府は彼らが正規に滞在できるよう在留資格を出してほしい。日本にいるミャンマー人を見捨てないでほしい」

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