ふじみ野市立てこもり事件、在宅医療に命を懸けた医師はなぜ射殺されたのか(前編) 男は7人を呼び出し、散弾銃を乱射した

再逮捕後、送検のため埼玉県警東入間署を出る渡辺宏容疑者(左)=2月20日午前8時47分

 埼玉県ふじみ野市で訪問診療医が犠牲になった立てこもり事件。容疑者の母親を看取った医師は、なぜ射殺されたのか。「団塊の世代」が後期高齢者となり患者数の増加が見込まれる中で、医療現場での暴言や暴力、ハラスメントの増加が懸念されている。事件とその影響、対策を追った。(共同通信=須田浄)

(後編はこちら)

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 ▽あの日、何が起きたのか

 埼玉県警などへの取材を基に、事件の概要を整理する。

 2022年1月26日、埼玉県ふじみ野市大井武蔵野の自宅で高齢の女性(92)が病死し、在宅クリニックを経営する主治医の鈴木純一さん(44)が死亡を確認した。その後、女性の長男で治療を巡って不満をもっていたとされる、渡辺宏容疑者(66)が1月27日午後9時を指定した上で、「線香を上げに来い」と、母親の医療・介護に携わっていた鈴木さんと看護師2人、理学療法士2人、医療相談員2人の計7人を呼び出した。渡辺容疑者は、鈴木さんの経営する在宅クリニックに連絡した他、一部の人には個別に連絡していた。

 1月27日午後9時ごろ、閑静な住宅街の一軒家に男女7人が集まった。1階の6畳間のベッドには、死後1日以上が経過した母親の遺体が横たわっていた。渡辺容疑者が口を開いた。「生き返るかもしれない。心臓マッサージをしてほしい」

 

 鈴木さんは丁寧に断った。すると、渡辺容疑者は自宅で所持していた散弾銃を手にし、銃口を鈴木さんの胸に向けて発砲した。弾丸は体を貫通し、鈴木さんは心臓破裂で即死。続けて、理学療法士の男性(41)の上半身を撃ち、医療相談員の男性に催涙スプレーを噴射した。さらに別の医療相談員に向けて発砲。スプレーをかけられた医療相談員が散弾銃を必死に取り上げ、家から逃れた。午後9時15分ごろ、「2人が銃で撃たれた。私は逃げている」と119番通報。理学療法士の男性は重体だが、一命は取り留めた。 

 渡辺容疑者はクレー射撃などが含まれる「標的射撃」目的で法的に所持を許可されたレミントン製とベレッタ製の散弾銃計2丁を所持しており、残った1丁を持って自宅に立てこもった。埼玉県警のネゴシエーターは複数回にわたり、渡辺容疑者と固定電話でやりとりを重ねた。会話が出来る状況だったが、特に要求はない。鈴木さんの容体を尋ねると、「人質は大丈夫だ。助けてあげたい。救出してもらいたい」と答えたが、「(鈴木さんが)全く動かない」とも話し、かたくなに鈴木さんに代わろうとしなかった。

渡辺宏容疑者が立てこもった現場付近に集まった警察官=1月28日午前7時57分、埼玉県ふじみ野市

 現場周辺では、多数の警察官が展開し、周辺住人を近くの中学校に避難誘導して安全確保に努め、突入の準備を進めていた。1月28日は付近の小中学校3校が臨時休校した。

 1月28日午前8時ごろ、11時間に及ぶ立てこもりの末、防弾装備の捜査員が玄関の鍵を破壊し、閃光弾を投げ入れた。捜査員が突入すると、渡辺容疑者は1階の6畳間でベッドと窓の間に身を潜めていた。ベッドには母親の遺体と散弾銃があり、床には鈴木さんが横たわっていた。渡辺容疑者は抵抗することなく、鈴木さんに対する殺人未遂容疑で逮捕された。

埼玉県ふじみ野市の立てこもり事件で、身柄を確保された渡辺宏容疑者(中央)=28日午前8時1分

 県警は突入に慎重を期した。捜査員が室内に踏み込む約1時間半前、ある捜査関係者に理由を尋ねると、ため息と共にこう語った。「現場は狭く、間取りが正確には分からないためシミュレーションしづらい」。別の警察幹部は容疑者確保の連絡を受けた直後、「猟銃を持っていたため拙速に突入できず、結果的に時間がかかってしまった」と明かした。

 ▽鈴木純一医師は在宅医療に命を懸けた

 地元の東入間医師会によると、鈴木さんは地域医療の要として、ふじみ野市など2市1町で在宅医療を受ける患者の8割に当たる約300人の診療を担い、新型コロナウイルスで自宅療養する患者にも訪問診療を続けていた。患者や家族に医療方針を誠実に説明する姿勢を貫いていたという。医師会の打ち合わせには聴診器を下げた術衣のままで現れ、「いかなる時でも患者さんの元に駆け付けなければ」と話し、昼夜問わず訪問医療を続けていた。

 

被害に遭った医師の鈴木純一さん

 東入間医師会の関谷治久会長(66)は「熱い人だった。自分の時間を犠牲にして、在宅医療に命を懸けていた。かけがえのない柱を失った」と偲ぶ。鈴木さんのクリニックと提携していたふじみの救急病院院長の鹿野晃さん(48)は「鈴木先生は、在宅医療は『人』を診る良さがあると話していた。夜中の3時や4時でも駆け付ける。そこまでやる医師はいない」と同志の死を悼む。「今日も往診に行っているイメージしかできない……」 

 父娘2代で鈴木さんの診療を受けていた女性(54)は「先生に会えると思うと、苦痛だった通院も楽になった」と振り返る。女性が酒をやめられず悩んでいると「怒らないから、量を減らしていこう。僕も甘い物が好きだからさ」と優しく相談に乗ってくれたという。

 女性は感謝の気持ちを伝えて菓子を贈ろうと、2月の診療で会えるのを楽しみにしていた。「何事も人のために尽くしていた先生でした。すごくショックです」

 ▽渡辺宏容疑者は、トラブルを起こし続けた

 埼玉県警や関係者によると、渡辺容疑者は母親と2人暮らしで逮捕時は無職だった。本籍地は東京都江戸川区。近所に住む80代の女性によると、渡辺姓で「ひろ君」と呼ばれていた男性が生活していた。金融機関に就職し、両親と一軒家に暮らしていたが、30年ほど前に突然一家の姿を見なくなった。

 渡辺容疑者と母親が10年以上通った病院の医師によると、渡辺容疑者は治療方法や病院対応に不満を感じると、よく院内で大声を出して怒った。激高するのはたいてい母親に関する内容で、「診察の順番を早くしろ」などクレームをつけていたという。別の医師は、母親の年齢や薬の副作用の強さを考慮して治療を見送ったが、説明しても納得した様子はなく、後日、簡易書留で渡辺容疑者から届いた手紙には非難の言葉と共に「猛省しろ」と綴られていた。

立てこもり事件の現場となった渡辺宏容疑者の自宅=2月16日

 渡辺親子が事件現場となった一軒家に引っ越す以前に訪問介護を担っていた担当者によると、渡辺容疑者は母親の下半身を晒した状態で放置していた。職員が自宅に行き、「パンツを履かせてください」と頼んでも履かせず、十分なリハビリが出来なかった。

 4畳半の部屋は、排泄物がついたおむつを詰めた大きなポリ袋が散乱し、虫が湧いていた。職員が壁を見て、「模様かな」と思うと、手で潰した無数の虫の死骸だった。その壁に散弾銃が2丁、飾ってあった。

 

被害に遭った医師の鈴木純一さん。2021年8月の東京パラリンピックの聖火リレーで、ランナーの伴走をした=埼玉県朝霞市

 そんな中、「トラブルが起きるなら僕が引き取りましょう」と、渡辺親子に手を差し伸べたのが被害者の鈴木さんだった。こうして、数年前に鈴木さんのクリニックが渡辺容疑者の訪問診療に当たるようになった。渡辺容疑者の母親が風邪をひいた際には、「訪問した医療従事者にうつされた。訴えてやる」と激怒する渡辺容疑者をなだめ、母親に点滴を打って治療した。

 渡辺容疑者の母親を訪問介護していた50代の女性は「見捨てないで引き受けてくれたのに。こんなことになるなんて」と悔やみきれない。

 だが、渡辺容疑者は不満を募らせていった。東入間医師会によると、2021年1月以降、渡辺容疑者から相談窓口に15回前後の電話があり、最後は事件直前の2022年1月24日だった。内容は鈴木さんの治療方針に関するもの。医師会関係者は「クレームをつけている印象。要求を拒否すると激高する、怒りやすいタイプだった」と振り返る。(つづく)

 ※後編では、共同通信が入手した男の通話音声、大阪・北新地のビル放火事件で亡くなった院長の友人の訴えや、医療現場の暴力を防ぐための専門家の提言を紹介する。

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