<政治>基地と経済 両立使命 歴代市長13人 発展の道つなぐ サセボのキセキ 市制施行120周年①

歴代佐世保市長(写真は佐世保市提供)

 日本本土の西の果てにあった小さな村は、1889年の海軍鎮守府開庁をきっかけに、人口が爆発的に増えた。1902年、村は一気に佐世保市へと移行。今や国際都市「サセボ」へと成長を遂げた。奇跡とも言える発展の軌跡を「政治」「観光」「食文化」などテーマごとに振り返る。

 佐世保市長の椅子には、これまでに13人が座った。当初は市議会の投票で選び、初代市長には長崎郵便局長だった渡辺修氏が就任。戦後の1947年に公選制となり、現職だった中田正輔氏が無投票で選ばれた。初の選挙戦となった51年の市長選には2人が立候補し、中田氏が当選。投票率は91.1%で、多くの市民が政治参加した。
 中田氏は旧軍港市から「平和産業港湾都市」への転換を目指し、観光業などに力を入れた。ただ、戦後も米海軍や自衛隊の基地は残り、朝鮮戦争など国際情勢に景気は大きく左右された。「基地政策と経済振興の両立が市長の使命となった」。2019年まで市議を8期32年務めた宮城憲彰さん(79)は語る。
 特に強い印象を残した市長は、1979年まで4期16年務めた辻一三氏。42年に市議となり、議長を2度経験した。鎮守府開庁と同時期に創業し、地場大手企業となった辻産業の社長でもあり、58年には佐世保商工会議所会頭に就いた。
 市長就任1期目に咽頭がんが見つかり、声帯を切除。「声なき市長」と呼ばれながら、不屈の精神で食道発声を習得し、職務を続けた。原子力潜水艦シードラゴンや原子力空母エンタープライズの入港を日本で初めて認め、原子力船むつの修理も受け入れた。経営危機の佐世保重工(SSK)再建にも尽力し、多くの難局と向き合った。
 後継者となった県副知事の桟熊獅氏は、基地との共存を掲げる一方、空母寄港が続き、日米政府に不満も示した。
 任期終盤には“不運”が重なった。92年、九州新幹線長崎ルートを巡り、佐世保経由を止める短絡ルート案が浮上。着工を優先するため「苦渋の決断」で受け入れたが、市民の失望は大きかった。94年の大渇水では給水制限が長期化し、責任を取る形で引退した。
 後任を争う市長選は保守三つどもえとなり、福祉政策に明るい光武顕氏が制した。過去の市長と系譜が異なり、「保守本流ではない」とみる向きもある。それでも、佐世保港の基地と民間施設のすみ分け問題では、米海軍佐世保弾薬補給所(前畑弾薬庫)の移転・返還に向けた道筋を付けた。
 現職の朝長則男氏もまた基地との「共存共生」を訴え、経済界との連携を重視。経営破綻したハウステンボスの救済に奔走し、その後の復活へつないだ。
 来春には次期市長選が控える。「基地の街」をどう発展させていくのか-。それは今後も問われ続ける。

■市庁舎 国際都市の“自覚”表れる

現代的なデザインで「九州随一」と評価された4代目の佐世保市庁舎(市教委提供)

 佐世保市長が行政運営の拠点とする市役所は時代とともに建て替えられ、現庁舎は5代目。それぞれの建物が、佐世保の“顔”として親しまれてきた。
 市教委などによると、1902年に村から市へ移行した最初の庁舎は、谷郷町にあった村役場をそのまま使用。翌年、八幡町にあった料亭「玉川」を改修して2代目の庁舎とした。その後は、老朽化したり、手狭となったりして、同町で建て替えている。
 10年には3代目となる本格的な庁舎を建設。木造2階建ての美しい洋風建築で、旧海軍省技師の駒杵勤治氏が設計した。

青ペンキ塗りの洋風建築だった3代目の佐世保市庁舎(市教委提供)

 34年に完成した4代目も優れたデザインが評価された。設計者は、現国会議事堂を手掛けた旧大蔵省の大熊喜邦氏。現代的な鉄筋コンクリート4階建てで、「九州随一の市庁舎」と評された。45年の佐世保空襲で周囲は焼け野原となったが、庁舎の骨格は残存。その後復旧し、現庁舎が74年に落成するまで活用した。
 現庁舎は地上13階、地下2階建て。当時は市内で最も高い建築物で、ランドマーク的な存在となった。
 市教委文化財課の川内野篤係長は「鎮守府の開庁で佐世保には全国から多くの人が集まるようになった。日本を代表する都市になったという自覚が、各時代の庁舎に表れているのではないか」と話している。

=次回のテーマは「港湾」。9日掲載予定です=

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