「俺の街はどっちだ」探し続けた福島のラッパー 原発事故避難を経験、ビートに乗せた答え

浪江町の漁港で撮影された「二つの空」のミュージックビデオ

 ヒップホップの楽曲に度々登場する「Represent(代表する、レペゼン)」という歌詞。多くのラッパーが地元を愛し、背負っている気持ちで自分の街を歌う。「俺の街はどっちだろう」。福島県のあるラッパーは、東京電力福島第1原発事故で追われた故郷か、新しい自分に変われた移住先か分からなくなっていた。長い年月をかけて見つけた答えは歌詞となり、ビートに乗った。(敬称略、共同通信=武田爽佳)

 ▽生まれ育った町

 動画投稿サイト・ユーチューブに2019年に公開された「二つの空」のミュージックビデオ。夕日に染まる福島県浪江町の漁港で、RYUJI(31)=本名・木幡龍司(こわた・りゅうじ)=がまっすぐ前を見据えて歌い出す。「一つは生まれ育った場所。俺の人生の中で初めて経験した大概の事はここで起きて過ぎていった」

 高校卒業まで過ごした浪江町。4人のきょうだいは、兼業農家の父が作ったコメを食べて育った。小学生の時からヒップホップを聞き、高校でライブハウスに出入りし始める。地元漁師の船が連なる港で同級生とスケートボードで遊び、たまにけんかして停学を食らった。

 地元に思い入れはなかった。就職した会社は原発の点検を手掛け、検査指導員として全国を飛び回った。東日本大震災が起きた日にいたのは、石川県の北陸電力志賀原発。事務所で多くの職員がテレビ前に集まっていた。東北を襲う大津波の映像に「すぐに実家に電話しろ」と上司は促す。家は海岸から約6キロ離れ、電話に出た母は「親戚が皆家に来てご飯を食べてるよ。大丈夫だあ」と無事を教えてくれた。その翌日、福島第1原発1号機の原子炉建屋が爆発した。

高校生時代のRYUJI(左)

 第1原発の20キロ圏に入る浪江町沿岸は直後に避難指示が出た。風で流された放射性物質は西の山間部に降り、1カ月後には町全体が避難区域となった。各地へばらばらに避難した家族とは合流せず、避難区域外のいわき市にアパートを借りた。自ら志願し、第1原発の点検に携わるようになった。

 ▽新天地

 「もう一つは生まれ変わった場所。新しい自分になれた」。避難指示区域外で茨城県境のいわき市は、浪江町と同じように漁業が盛んだ。先輩に誘われ、名産の小魚にちなんだ地元のヒップホップユニット「メヒカリボーイズ」に加わった。

メヒカリボーイズのメンバーとして活動するRYUJI(右)

 ゆかりのない街に住む不安はあった。ライブハウスで知り合った人から「賠償金をもらってんでしょ」と言われたこともある。1人でいると、いろいろ考え込んで気分が沈んだ。だが出演するライブや地域イベントで出会い、友人が少しずつ増えていった。音楽が入り口となり、新しい街に溶け込んだ。

 「俺らが一番かっけーだろ」。20代前半までそんなとがった感覚で活動していた。他人にも興味がなかった。音楽業界以外の人と話す機会が増えるにつれ「世の中にこんな考えもあるんだ」と世界の見方が変わった。

 ▽当事者ゆえに

 生まれ育った浪江のことは、長い間歌詞にする気になれなかった。浪江出身なのに、いわき市のご当地ユニットをやっていていいのか。自分の世代が地元のために何かしなきゃいけないと思うのに、何もできてない。考えがまとまらず、後ろめたさばかりが募る。浪江を巡る問題のあまりの大きさに、当事者として安易に書けなかった。

 原発事故から8年以上が過ぎ、全国の若いアーティストによるコンピレーションアルバムにソロで参加する機会が飛び込んできた。初めてのソロ曲づくりに、何をテーマにするか。「これはもう書けっていうことなんだな」と素直に思えた。車で職場の第1原発と家を往復する1時間半の道中で歌詞を練り、「二つの空」を書き上げた。

ミュージックビデオの中に映る浪江町の商店街

 「一つじゃなきゃだめだなんて、誰が決めたんだよ Represent浪江 Representいわき」。ミュージックビデオでは、シャッターが閉ざされた家屋が目立つ浪江の商店街と、いわきのソープランド街を歩くRYUJIが代わる代わる映る。「心にいつもFor the two town」。

 ▽背中押す共感

 歌詞を考える時は中学、高校時代の友人の顔がいくつか浮かんだ。原発事故の2カ月前、成人式で顔を合わせた友人たち。それまで地元に帰れば会えたが、みんな県内外への避難で散り散りになった。「会えるうちに」と、音楽活動のない週末は車で各地に通った。

 「二つの空」の公開後、半年ぶりに会った友人がふと「あの曲良かったよね」と言った。「現状とすげえ重なった」と共感する人も。一番届けたい人に届いた気がした。身近な人が共感し、少しでも心が楽になればいい。歌詞をつづりながら願ったことだった。

2021年12月、いわき市のライブハウスで歌うRYUJI

 がんじがらめになった気持ちは、共感することで一定のふんぎりが付くのではないか。「自分もこういう風に考えてたんだな」と気持ちを整理できる人がいるのならば、それは間違いなく「書くべき曲」だった。

 ▽父の表情

 21年12月末、いわき市の小さなライブハウスは酒を片手に笑い合う若者でにぎわっていた。薄暗い空間で、かすかなライトに照らされたRYUJIがマイクを握る。「みんな年末でおやじと会うだろ。照れくさいかもしんないけど、しゃべってみんのも良い機会かも」「説教くさくてごめん」。ステージ下の後輩たちに語り掛けた後に歌い出したのは、父のために作った曲だった。

 「お父さんの様子がおかしい」。20年秋、茨城県つくば市で一緒に暮らす母から連絡が来た。家に引きこもり、口数も減った。大人になってからじっくり話す機会が少なくなっていたが、父止男(68)と話し合おうとつくば市に向かった。

RYUJIと父の木幡止男さん

 テーブルを挟んで晩酌しながら聞くと、原因は一つではなかった。19年春に祖母が亡くなった喪失感。会社勤めの合間に手掛けていた田んぼや畑への愛着。「定年後、一番やりたかったのはコメなんだ」と父が言う。浪江町の家や周辺地域の避難指示は17年春に解除されたが、人の手が入らなかった田畑は雑草で緑一色となっていた。

 「あまり良いおやじじゃなかった」と父が漏らす。即座に否定した。「他のきょうだいもだけど、誰もそんなこと思ってないよ」と目を見て伝えると、父が少しの間うつむいた。「そうか。ありがとう」と小さく返事した時の表情は、死ぬまで忘れない気がする。

 ▽突き詰めた先は

 相手の気持ちを聞き、自分の気持ちをちゃんと伝えなければならない。強く実感したあの夜の後、父への思いを新曲「Show me life」に書き込んだ。話す機会が少なくなった親子はおそらく自分たちだけではない。だからこそライブで「親としゃべってみて」と呼び掛けた。「うっせえなあ」と心の中で思われるかもしれないが、この曲が一つのきっかけとなってほしい。

浪江町の実家の田畑で撮影された「Show me life」のミュージックビデオ

 話し合いや手紙よりも、自分にとって音楽の方が大切な思いを伝えられる。曲の長さと使う言葉が制限されるラップ。縛りがある中で、伝えるためにどの言葉を選べばよいか、ひたすら考える。突き詰めた先に生まれた詞が、自分にとって一番納得できる答えだった。

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