歴史が遣わせたアイドル、松田聖子が最もエキサイティングだった黄金の6年間 財津和夫、松本隆、大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣etc. 松田聖子を支えたアーティストも、ともにブレイク

人が歴史を作るのか、歴史が人を作るのか

司馬遼太郎原作の大河ドラマに、幕末の長州藩の天才軍略家・大村益次郎を主人公にした『花神』という作品がある。その冒頭では毎回、オープニングの前に次のようなナレーションが流れる。

 一人の男がいる。
 歴史が彼を必要とした時、
 忽然として現われ、
 その使命が終わると
 大急ぎで去った。

―― 事実、大村は長州存亡の危機と言われた第二次長州征伐に颯爽と現われ、農民、町人を含めた市民軍を創設して幕府軍に大勝すると、時代は一気に討幕へと傾く。そして戊辰戦争では政府軍を率いて東北・函館を制圧、ここに維新が成る。だが、大村自身はその年の暮れに刺客の刃に倒れたのである。

よく、人が歴史を作るのではなく、歴史が人を作ると言われる。

戦国時代の三傑―― 信長・秀吉・家康もまた、戦国の争乱を収めるために、歴史がこの世に彼ら3人を遣わせたとも。

80年代アイドルブームに登場した松田聖子

アイドルの世界も同様かもしれない。時に1970年代末、キャンディーズが解散し、ピンク・レディーがアメリカ進出を機に失速し、山口百恵が三浦友和との婚約で引退を発表するに至り、アイドルの時代は終焉を迎えたかに見えた。

だが、そこへ歴史の神が手を差し伸べる。百恵の婚約・引退発表会見からわずか25日後、一人の女性アイドルがデビューする。彼女の登場を機に、日本中の若い女性がその髪型を真似し、その歌声に憧れ、空前の80年代アイドルブームが幕開ける。

彼女こそ誰あろう、松田聖子その人である。

奇しくも今日、3月10日は聖子サンの誕生日。そこで、今回はアイドル史における松田聖子と、彼女を取り巻く作家陣の歴史的立ち位置を改めて検証したいと思う。

もう、お気づきの方もいるかもしれないが、この話もまた、例の「黄金の6年間」が深く関わってくる。そう、1978年から83年にかけて、様々な業界が垣根を越えてクロスオーバーを始め、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代である。

ミスセブンティーン九州予選大会で優勝した松田聖子

この物語は、1978年に始まる。

その年の4月4日、キャンディーズが後楽園球場で華々しく有終の美を飾った、わずか3日後―― 九州は福岡の福岡市民会館にて、集英社と CBSソニーが主宰する女性アイドルの登竜門『ミスセブンティーン九州予選大会』の優勝者が決まる。久留米の信愛女学院2年に在籍する彼女の名は蒲池法子―― のちの松田聖子である。

だが、彼女は厳格な教育方針の父親の反対に遭い、全国大会への出場を断念する。しかし―― 時代の神は彼女を手放さない。現れた救世主は、後に聖子サンをデビュー時からプロデュースする CBSソニー(当時)の若松宗雄サンである。彼は先の予選大会の録音テープを一聴し、聖子サンの力強くも憂いのある歌声に一瞬で胸を掴まれる――「この声なら売れる!」

かくして、若松Pはスカウトのために久留米を訪れるが、ここでも父親の強い反対に遭う。ちなみに、のちに松本隆サンが聖子サンの作詞に志願するのも、デビュー曲の「裸足の季節」の力強い歌声に惹かれたからである。いかに、声質というものがアイドルにとって重要か――。

その後も、若松Pは何度も久留米を訪れ、聖子自身も粘り強く父親を説き続けた結果、ようやく翌79年2月、「1年で芽が出なかったら、帰ってくる」との条件付きで、歌手になる許しが出る。

「今すぐ歌手になりたい」自身の行動力で掴んだデビューへの道
同年6月、所属事務所がサンミュージックに決定する。但し、既に他にデビュー予定の新人がいたので、「来年春、高校を卒業してから上京するように」と告げられる。だが―― ここで聖子サンが取った行動が、彼女のアイドル人生を大きく変える。

彼女は高校を中退したのだ。そして上京してサンミュージック社長(当時)の相澤秀禎サン宅を訪れ、今すぐ歌手になりたいと直訴する。僕も一度だけ、岡田有希子サンの線香をあげに、成城にある相澤社長のご自宅に伺ったことがあるが、思ったより庶民的なお屋敷だったと記憶している。

ここで運命の扉が開く。相澤社長は聖子サンの行動力に心を動かされ、彼女を寮に入れ、堀越学園に転入させたのだ。つまり―― デビューのタイミングが1年早まったのだ。その結果、早生まれの聖子サンは高校卒業直後に18歳でデビューして、翌年3月まで18歳と、デビュー1年目を高校生(卒業してるが)のイメージで売ることが可能になった。フレッシュさが命の新人アイドルにとって、このアドバンテージは大きい。3枚目のシングルの両A面曲に「Eighteen」が選ばれたのも、そういうことである。

実際、売れるアイドルには早生まれが多い。当時の表記で申し訳ないが、キャンディーズのランとミキ、ピンク・レディーのミー、山口百恵、小泉今日子、伊藤つかさ、中山美穂、渡辺麻友、宮脇咲良―― みんな早生まれである。

デビュー曲は「裸足の季節」
1980年4月1日、聖子サンは念願のレコードデビューを果たす。ファーストシングルは、資生堂エクボ洗顔フォームのCMタイアップ曲の「裸足の季節」だった。作詞・三浦徳子、作曲・小田裕一郎。三浦サンは1977年に作詞家デビューし、1978年に八神純子の「みずいろの雨」がスマッシュヒット。一方、小田サンも1979年にサーカスに提供した「アメリカン・フィーリング」が出世作になるなど、2人ともまだ駆け出しの職業作家だった。

7月1日、セカンドシングル「青い珊瑚礁」リリース。作詞・作曲の座組は前作と同じで、ここから、大村雅朗サンが編曲で参加する。彼もまた、1978年に福岡から上京して、アレンジャー活動を始めたばかりのルーキー。山口百恵の「謝肉祭」の編曲で注目され、CBSソニーの若松プロデューサーから声がかかった。

そう、三浦・小田・大村ら初期・松田聖子サウンドを作り上げた面々は、比較的キャリアの浅い、新進気鋭のチームだった。それゆえ、フレッシュさと力強さを備えた楽曲が数多く生み出された。当時は楽曲のコンセプト作りからビジュアルやコピーワークまで全てを若松Pが手掛けており、彼の仕事のやりやすさもあったのだろう。

だが、2年目から若松Pは作家性を前面に打ち出す戦略に舵を切る。手始めに起用したのが財津和夫サンだった。財津サンはその期待に応え、「チェリーブラッサム」「夏の扉」「白いパラソル」と3曲連続でシングルを作曲。一方、作詞では「白いパラソル」以降、自薦もあって松本隆サンが起用される。そして松本サンが半ばプロデューサー的立場となり、その交流関係から、大瀧詠一サン、ユーミン、細野晴臣サンら一流のニューミュージック勢を巻き込み、中期・松田聖子サウンドが確立されていく。

松田聖子プロジェクト参加アーティストたちに共通する “ブレイクの転機”
面白いデータがある。

財津サンを始め、中期・松田聖子に参加した重鎮の彼らもまた、1978年に何らかの転機を迎え、そして聖子サンに楽曲提供した80年代前期に、自身としても第二のブレイク期を経験する。

財津和夫サンは1978年にソロデビューして、79年には「Wake Up」がスマッシュヒット。そして80年代に入り、チューリップのオリジナルメンバーの脱退が相次いだことから、次第にソロの比重が増え、他の歌い手への楽曲提供も活発になる。

松本隆サンは1977年秋から78年にかけて手掛けた原田真二の一連の作品で、作詞家としてのポジションを確立。そして80年代に入り、本格的にブレイクすると、81年には寺尾聰に詞を提供した「ルビーの指環」で同年の第23回日本レコード大賞を受賞する。

大瀧詠一サンは、1978年にコロムビアとの契約を解消し、80年に CBSソニーに移籍すると、そこからシングル「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供したり、アルバム『A LONG VACATION』が年間チャート2位のミリオンセラーを記録するなど、80年代前半、精力的に活動する。

ユーミンは1978年から83年にかけて、年2枚のオリジナルアルバムを発表するなど、この時期、旺盛な創作意欲を見せる。そして第二次ユーミンブームを迎える。

細野晴臣サンは1978年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成して世界的にブレイク。それを機に、他の歌い手への楽曲提供も精力的にこなし、81年にイモ欽トリオに書いた「ハイスクールララバイ」はオリコン7週連続1位を記録する。

“黄金の6年間” に符合する、松田聖子が迎えた3回のピーク

―― さて、そこで、当の松田聖子サンである。

リアルタイムで彼女を眺めてきた僕が思うに、1980年4月のデビューから、85年6月の神田正輝サンとの結婚までをアイドル期と呼ぶなら、その5年間で彼女は都合3回、人気のピークを迎えている。

1度目は1980年7月の「青い珊瑚礁」から81年4月の「夏の扉」まで。いわゆる聖子ちゃんカットのスタンダードな彼女が堪能できて、声もかすれる前。男性人気が最も高かった時代である。

2度目は、1982年1月の「赤いスイートピー」を起点とした時代。髪を切り、ユーミンのアドバイスで声を張らない歌い方に変え、女性ファンが一気に増えた時期である。

そして3度目が、1983年4月の「天国のキッス」から、翌84年春先の「Rock'n Rouge」まで。俗に「1983年の松田聖子」と言われる時代だ。ストレートの髪型が支持されたり、キャンディボイスが完成の域に達した、いわゆる円熟期。楽曲にも恵まれ、特にサントリーCANビールのCMソングに起用された「SWEET MEMORIES」はアダルトな世界観が支持され、大ヒット。同曲の作曲を手掛けた大村雅朗サンの代表曲にもなった。この「1983年の松田聖子」の時代があるから、今日まで彼女の人気が続いているとも言われる。

―― だが、聖子サンの3度目のピークもそこまで。不思議なことに、1984年5月、17枚目のシングル「時間の国のアリス」がリリースされると、彼女の人気はじりじりと下がり始める。楽曲はユーミンの提供だし、特にクオリティが低いワケではない。不思議だった。

気が付けば、「黄金の6年間」の宴の季節は終わっていた。もしかしたら、時代の神様が彼女にこうささやいたのかもしれない。

「もう、みんなのために歌わなくてもいいんだよ。誰かのためにだけ、歌えばいいんです」――。

彼女が最初の結婚式を挙げるのは、その1年後である。

※2019年3月10日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 指南役

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