「まさか」の戦争始まった (後編) 故郷に砲撃、自宅追われる人々 ウクライナ取材20日間

ウクライナとポーランドの国境方面に向かう通る道路で警戒に当たる迷彩服姿の男性=2日(共同)

 隣の「兄弟国」ロシアから侵攻を受けたウクライナ市民たちの故郷は凄惨な戦場と化した。20日間の現地取材を行った記者が見聞きした、人々の悲痛な訴えを報告する。(共同通信=津村一史)

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 ▽少女の涙、父と別れ

 避難民であふれかえる駅前で泣きはらす少女を、父親とみられる男性が抱きしめていた。「次に何が起きるかもう分からない」―。ロシアのウクライナ侵攻開始から1週間がたとうとしていた。首都キエフはじめ各地で終わりの見えない激戦が続き、多くの市民が自宅を追われた。突如始まった戦争は、家族や恋人ら愛する者同士を離れ離れにしていく。

 リビウの駅は、今やホームというホームを人が埋め尽くしている。隣国ポーランドへの「脱出口」に、空路を断たれたウクライナ全土からの避難民が押し寄せたからだ。顔に浮かぶのは安堵とは程遠い、悲しみ、怒り、不安だ。

 「どんな方法でもいい。とにかく安全な所まで行きたい」。南東部ザポロジエ州からリビウに逃れてきた保険外交員のカティアさんは、いつ出発するかも分からないポーランド行きの列車を待ち続けていた。同州からリビウまでの列車は無料で、座席や通路は身動きが全く取れないほどに混んでいた。

 娘のマリアさん(10)と母、友人、犬が一緒だが、再婚した夫(40)と長男(25)の姿はそこにない。トヨタ自動車の販売員である夫は、ロシア軍が砲撃した原発が立つ同州に残ると決め、市民から成る「領土防衛隊」に志願した。マリアさんが「パパは強いから大丈夫」と笑顔で教えてくれた。

 ウクライナではゼレンスキー大統領が出した総動員令により、18~60歳の男性は原則出国が認められない。国外避難する子供の多くは父親と離れざるを得ず、この日も駅前では家族との別れを惜しんでいるのか、目を真っ赤にする少女の姿があった。

 駅周辺の長距離バス乗り場でも女性や子供の姿が目立つ。ポーランドのほか、さらに西方のチェコ行きの便もある。切符を確保できていない女性が運転手に乗せてくれと懇願していた。しかし乗れたとしても、列車もバスも越境手続きは20時間要するケースもあるという話だった。

 このため、リビウをひとまずの落ち着き先とする人も多いようだ。寒風が吹き付ける駅前では、避難者向けの交通や宿泊場所情報を掲示。中高生ぐらいに見える若者も交じるボランティアたちが、声を掛けながら食料を配って回っていた。

 カティアさんは「できればイタリアかスペインぐらい遠い国に逃げたい」と打ち明けた。NATO加盟国のポーランドまで避難すれば安全なのではと問うと、首を振って「安心できない。もう今はどんなことでも起こり得る」と暗い表情を浮かべた。

 カティアさんは携帯電話に保存している写真を見せながら「この男はロシアのスパイだということで今朝、私たちの地元で逮捕されたの」と話した。真偽不明だが、各地に多数のロシアの工作員が入り込んでいるといううわさが流れていた。

 ▽スパイの疑い

 リビウの街の様子を伝えようと、閉まったシャッターが並んでいる商店の映像をスマートフォンで撮っている時だった。黒服の男に腕をつかまれた。険しい表情で何か言いながら、私をどこかに連れて行こうとする。腕を振り払って少し移動し、今度は銅像の周りを歩く人々を撮影していた。

 気づくと自動小銃を持った迷彩服姿の兵士たちに取り囲まれていた。近くの軍施設とみられる建物に連れてこられ、カメラとスマートフォン、取材ノートを取り上げられた。英語で「記者だ」と説明したが全く通じない。兵士の1人がカメラの撮影画像をチェックし始めたので何度も抗議したが、5人ほどが私を囲み「話すな」「動くな」「座れ」と語気鋭く制止してくる。

 画像の中にキエフからリビウに移動してくる際に撮ったウクライナ軍の車両やリビウの軍用空港があるのに気づくと、大声でまくし立ててきた。スマートフォンのグーグルマップの検索履歴まで確認し始め、私がリビウにある戦車工場の場所を調べていたことが分かると、彼らはさらに興奮した。

 どうもまずいことになってきたなと思った。以前、シリア内戦取材で隣国のトルコ側の国境地帯をうろついていて、トルコの憲兵隊に7時間にわたって拘束されたことがある。「軍指定の立ち入り禁止区域に入った」「シリア側に不法越境し、さらにトルコ側に不法入国した」とあらぬ嫌疑をかけられ、起訴に向けた身体検査を受けさせられ、警察署の留置施設に護送されたのを思い出した。この時は地元の協力者の助けを得て、結局無罪放免となったが、リビウに頼れそうな人は誰もいない。

 そうこうしているうちに英語が話せる軍職員が現れた。彼は私にロシアやクリミアへの渡航歴があるかを何度も聞き、パスポートもその点を入念に調べていた。要はロシアのスパイではないかと疑っているようだった。グーグルマップで戦車工場の場所を調べるスパイはいないと思うが、それだけウクライナ軍が追い込まれ、神経をとがらせていたということかもしれない。

 ノートもくまなく見られた。「日本語は読めない」と言っていたが、お世話になったリビウ在住の女性通訳の名前をローマ字で書いていたのを見とがめられた。迷惑がかかってはいけないと思い、ただの友達だと説明したが「電話番号を教えろ」と言われた。「知らない」と答えても、SNSのアカウントなら分かるだろうと食い下がってくるので、スマホを調べるふりをしながらフェイスブックやインスタグラムのアプリを全て削除し「分からない」となんとかごまかした。

記者であることをあらためて伝え、日本新聞協会の海外特派員証を見せたが反応はなく、英語ができる職員と兵士たちが協議している。ふと思い立ち、普段出入りしているバチカンの記者証を見せると、これが効果てきめんだった。記者証と一緒に入れていたローマ教皇フランシスコの写真を見て「教皇じゃないか」と兵士が初めて笑顔を見せた。

 そこから彼らの態度は明らかに軟化し、軍関係の施設を今後は撮影しないよう要請され、釈放となった。カメラの画像を削除されそうになり、それは受け入れられないと言うと、削除もされなかった。

 ▽ハリウッドの使者

 戦争の取材をしているのだから当たり前だろうが、基本的に気がめいることしか起きない。岡田、伊東と3人で、その日からお世話になるリビウ市内の小さなホテルに移動した。チェックイン前にロビーの椅子に腰を落ち着けた時、岡田が「あの人、ショーン・ペンにすごく似てない?」と小声で言った。

 確かにショーン・ペンさん(61)にしか見えない男性が座っている。しかし、「デッドマン・ウォーキング」や「I am Sam アイ・アム・サム」など数々の名作映画に出演し、2度のアカデミー賞主演男優賞を受賞したハリウッドの大スターが、こんな所に1人でいるわけはないと思った。

 ただ、彼はこれまでも世界の外交問題や社会問題などに対して積極的に発言している。18年にはサウジアラビア人記者ジャマル・カショギ氏の殺害事件を巡るドキュメンタリー映像作品の制作のため、トルコ入りしたとの報道もあった。もしかすると本人かも…。

 われわれは思い切って「ショーン・ペンさんですか」と声を掛けてみた。すると笑顔で「イエス」との答えが返ってきた。ウクライナ侵攻のドキュメンタリー映像作品を制作するためリビウを訪問しているとのことだった。うかつにも把握していなかったのだが、ウクライナ大統領府も2月24日、ペンさんが首都キエフの大統領府を訪問したと明らかにし「欧米の政治家に欠けている勇気を示している」とのコメントを発表していた。

 突然のぶしつけな取材にも快く応じてくれたことに礼を言い、握手をして別れた。ペンさんはチェックアウトし、もう1人の男性と車で出発していった。

 ペンさんは3月1日、ツイッターに「私と2人の同僚はポーランド国境まで数マイルを歩いた。車は道ばたに置いてきた」と投稿。掲載写真には長い車の列が写っており「ほとんど全ての車は女性と子供しか乗っていない」と書き、避難民の多くが手荷物も持たずに着の身着のまま逃げているようだと伝えた。ペンさん自身も徒歩で出国したとみられる。

 ▽戒厳令と禁酒令

 われわれの取材はひとまず終わろうとしていた。交代でジュネーブ支局の出口朋弘(50)がリビウに入ることが決まったからだ。ほかの記者やカメラマンも次々投入されるとのことだった。ただ、この大混乱の中、どうやってウクライナまで来るのかという問題が残る。われわれが出国するのはさらに難題に思えた。

 ウクライナでは戒厳令が出され、リビウでは夜間の午後10時から午前6時までの外出が禁止となった。すでに多くの飲食店が閉鎖されていたが、午後6時以降の酒類提供も禁止となり、3月1日には完全な禁酒令も出された。滞在していたホテルでもビニール袋を持った従業員が慌ただしく各部屋を回り、冷蔵庫から全ての酒を回収していった。何度も空襲警報が鳴り、物々しい避難の呼び掛けが響く中、地下シェルターに駆け込む生活が続く。

 タクシーもまったくつかまらない。ホテルや旅行代理店に手配を頼んでもだめだ。リビウからメディカ国境検問所までは80キロ余り。歩き通せる自信はない。鉄道はウクライナ市民に無料開放されているとの話だったが、外国人はチケットが必要で、とても入手できる状況ではない。残るは長距離バスだ。予約サイトを開くと意外にも空席が多く、3月2日午後3時にリビウを出発し、ポーランドのジェシュフを通る便が取れた。

 交代の出口もバスでのウクライナ入国を模索していた。避難する人々とは逆方向となるためか、こちらも予約は簡単にできたようだ。リビウには3月1日午後5時半に到着するとのことだった。 ところが当日になって出口から電話がかかってきた。理由は分からないが、バスが突然キャンセルされたという。「クラクフからのバスがあるからそっちで行く」。出口がいるジェシュフからは170キロは離れているはずで、そちらまで移動してバスに乗るなら、リビウ到着はいつになるのか。耳を疑ったが本気らしい。そのバスだと、リビウ着は午後11時予定とのことだった。夜間外出禁止令に引っかかるため、その時間だと通訳さんの知人が車を出すことができない。

 夜10時以降は特別な許可証を持っているタクシーしか運転できず、通訳さんが許可証を持つ運転手を見つけてくれた。結局、出口がバス乗り場に着いたのは翌3月2日の午前2時前だった。

 ▽残り1キロ12時間

 岡田、伊東と3人でウクライナを出発する日が来た。記者もカメラマンもこれから順次、投入されるとはいえ、来たばかりの出口を1人置いていくことに申し訳ない気持ちが募る。ウクライナの惨状を日本の読者に伝えるために来たはずなのに、自分にどれだけの仕事ができたのか。「やっぱりもうしばらく残ります」との言葉が出かかったが、妻と娘たちに早く会いたい気持ちが勝った。

混み合うウクライナ・リビウの駅前にあるバス乗り場=2日(共同)

 バスが出発するリビウ駅近くの発着場に到着。バスを見た時は正直安堵した。出発まで少し時間があり、ごった返す人波の中で何人かに話を聞いた。人々が置かれている過酷な状況を改めて思い知らされる。

 午後3時9分、50人ほどのウクライナ人とわれわれを含む外国人5人を乗せたバスが走りだした。国境までの道のりは順調だった。30分もたたないうちにリビウ郊外に出て、土嚢が積まれたチェックポイントをいくつか通ると、午後5時15分には国境検問所まで約1キロの地点に着いた。ジェシュフの到着は午後7時半の予定だ。国境検問所の近くは、バス、一般車両、トラックの3種類のレーンに分かれていた。バスは見えているだけで12台ぐらい並んでいるようだ。

ウクライナ側からポーランド側に向かう道路に設置された「検問」=2日(共同)

 しかし、そこからバスは動かなくなった。1時間ほどたってから、ちょうどバス1台分ぐらい進む。そしてまた1時間ほどたつと、またバス1台分進む。越境手続きがバス1台につき1時間ほどかかっているらしい。見えているだけで前方に12台。おそらくその先にもっと多くのバスがいるだろう。ポーランドに一般車両で出た人の話で「国境の手続きの順番が来るまで4日待った」という情報もあった。

 あまり深く考えないことにした。伊東はキエフから避難してきたという隣席のウクライナ人女性に、グーグル翻訳を使って熱心に話を聞いていた。午後11時半ごろ雪が降り始めた。バスも隣のレーンの乗用車の列もほとんど動かず、近くの売店に長い行列ができていた。トイレに行くにもこの列に並ばなければならないようだ。岡田は目の前にいた白い大きな犬にずっと足を踏まれていた。ちょっと移動して前に進んでも、犬は必ず岡田の靴の上に立った。地面が冷たいのかもしれない。

国境付近で連なるウクライナ側からポーランド側に向かうバス=2日(共同)

 売店で買ったホットドックを、伊東の隣席のユリアさん(62)にも手渡した。同い年の精神科医の夫は患者を診察するためキエフに残ると決めたらしい。夫婦離れ離れとなり1人で、ドイツに住む娘スベトラーナさん(42)の所へ向かうとのことだった。連日空爆されているキエフについて「街は空っぽ。至る所から人々の泣き声が聞こえた」と教えてくれた。ユリアさんは元々ロシア育ち。ぜんそく持ちのスベトラーナさんのために、「空気のきれいな」キエフに移り住んだ。ロシアには今も両親や親戚がいる。爆撃された近隣住宅の写真を、怒りを込めてロシアの親類に送ると「フェイクニュースだ」との返信。母国にはもう帰れないと衝撃を受けた。

 日付が変わり3月3日の午前1時20分、国境検問所の中にバスが入った。迷彩服姿の女性が乗り込んできて乗客のパスポートに次々とスタンプを押していく。ポーランドの入国審査の際は、われわれ外国人乗客5人がバスを降りなければならなかったが、手続き自体はすぐに済んだ。平時に求められた新型コロナウイルスの陰性証明も必要なくなっていた。

 バスがポーランドに入ったのはウクライナ時間で午前5時52分。国境検問所付近からの1キロを通過するのに12時間近くがたっていた。リビウを出発しジェシュフのバスターミナルに到着するまでには予定の5時間半を優に超え、15時間以上を要した。もう夜は明けようとしていた。

 ポーランドの空港からドイツを経由しローマに着いたのは3月5日夜。道中のホテルや空港でウクライナのパスポートを持った人がたくさんいた。周りの目がある中でも涙を流している女性が何人もいた。

 20日間の取材を終え、記者としてやり残したことがあまりに多すぎると感じた。必ずまたウクライナに戻る。自宅のドアを開けながら、そう思った。

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