<観光>旧軍港市から平和産業港湾都市へ 「九十九島」の魅力高める サセボのキセキ 市制施行120周年③

九十九島をバックに写真に収まる知則さん=佐世保市内(蓮田さん提供)

 戦後、全国的に復興を目指して観光開発に向けた動きが高まった。そうした中、終戦翌年の1946年から55年まで佐世保市長を務めた中田正輔氏は、旧軍港市から平和産業港湾都市への転換を目指し、観光業などに注力した。その大きな柱の一つが西海国立公園の指定。「観光都市佐世保の建設は、まず西海地区の国立公園指定から」として、49年に指定実現に向けて動きだす。
 「トンネルを抜けると国立公園だった-、そんな雰囲気を作りたかったと父は生前話していました」。元佐世保市職員で観光課長も務めた蓮田尚さん(63)は穏やかな口調で振り返る。同じく市職員だった蓮田さんの父、知則さんは、51年に初めて設置された観光係長に就任した。といっても係の職員は知則さん1人。島の買収や調査同行など指定を受けるための土壌づくりに奔走した。
 多くが民有地だった南九十九島の買収では、「この島は8千円にしておこう」といった具合に買い進め、約30の島々を市有地に。学者らの現地調査にも同行して、指定のための資料作りにも携わった。
 佐世保市史などによると、戦前から九十九島などの自然公園化を主張していた中田氏の西海国立公園指定への思いは強く、50年に県の協力を得て、西海公園区域内の自治体で期成会を結成。自ら会長に就任し先頭に立って活動を推し進め、55年3月に18番目の国立公園として指定を受けた。同年10月には西海橋も完成し、弓張岳とともに九十九島は、観光拠点の一つになっていく。

弓張岳登山道から見える、1950年頃の九十九島(蓮田さん提供)


 国立公園指定後、市は59年に石岳展望台、61年に市亜熱帯動植物園(現九十九島動植物園)、64年に遊覧船「はまゆう」就航など整備を進めたが、宿泊機能の不十分さなどで「通過型の観光地」から脱却できずにいた。
 そんな中、大型リゾート施設、ハウステンボスの構想が浮上、波及効果を期待して鹿子前地区の開発を開始。運営を担う第三セクター「させぼパール・シー」を設立し、94年に西海パールシーリゾート(現九十九島パールシーリゾート)の供用を始めた。同リゾート内の西海パールシーセンター(現九十九島水族館)では、当時は珍しいドームシアターでの動画上映に加え、水族館や500人を収容する会議場などを設置したが、集客は伸び悩んだ。
 低迷する状況を打開するため97年に市が本格的に運営に加わった。蓮田さんは同センター次長に就任。父親と同じように本格的に九十九島観光に携わることになった。
 会議場の見直し、ドームシアターの閉鎖、水族館の拡充などに取り組み、現在の九十九島パールシーリゾートの原型を作る。「景観の美しさもさることながら、個性的な自然がある点も九十九島の魅力。にぎわうパールシーを見て父も喜んでいた」と蓮田さんは笑顔を見せる。

九十九島の海を走る遊覧船「パールクイーン」=佐世保市内(させぼパール・シー提供)


 旧軍港市からの脱却を図り九十九島などの魅力を高めてきた佐世保。開園30周年を迎えるハウステンボスは国内有数の観光施設となった。クルーズ船を迎えるための岸壁も整備され、観光都市としての歩みを着実に進めている。

  =次回のテーマは「食文化」。16日掲載予定です=


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