警察統計頼みの“1本足打法” なぜ消えた臨床的研究 迷走する国の自殺対策(上)

By 佐々木央

自死対策を主管する厚生労働省が入る中央合同庁舎第5号館

 新型コロナウイルスの社会的な影響として、自死する人が増えることが懸念されている。この感染症は健康を損ない、命を奪うだけでなく、人の活動を変容・停滞させ、とりわけ弱い立場の人たちを、経済的に困窮させ、社会的に孤立させるからだ。

 こうした中で、国の自死対策が迷走していることは、あまり知られていない。コロナ禍に即して、あるいはポストコロナの時代をも展望して対策を立てていく必要があるはずだが、足元が揺らいでいる。(共同通信=佐々木央)

 ■危機的状況で生まれた基本法

 一昨年(2020年)の自死者の数は前年に比べ912人増の年間2万1081人となり、09年以来の増加に転じた。昨年は2万1017人と74人減ったが、高止まりとなっている。

 自死対策の迷走ぶりを見る前に、まず基本的な枠組みを概観したい。

 対策の根幹を定めるのは、06年に成立した自殺対策基本法である。日本における自死者数は1998年に3万人を超え、2011年まで3万人台が続いた。基本法はこうした危機的な状況の中で制定された。

 基本法制定翌年の07年、自殺総合対策大綱が定められた。基本法の理念を実現するための指針と位置づけられる。大綱はその後、12年、17年と5年ごとに見直され、現在は次の5年間の大綱策定に向けて検討が進んでいる。迷走はこの大綱に関わる。

 ■要因や理由を多角的に解明

 12年の第2次大綱まで重視されたのが、まず実態を知ろうとする科学的態度である。その象徴的な手法が「心理学的剖検」だった。それが17年の大綱で消え、次期大綱でも、復活させようという議論になっていない。心理学的剖検とは何か。

 「剖検」とはふつう、死因などを調べるために,遺体を解剖して調べることを意味する。テレビの刑事ドラマでおなじみだ。法医学の先生が死亡時間や死因、死亡状況を明らかにして、事件の真相解明につなげていく。

 だが自死の場合、直接的な死の状況だけでなく、なぜ自死に至ったかを明らかにしなければ、予防のための対策を立てることができない。生きてきた過程や心の状態まで知る必要がある。心理学的剖検はそれを目標とする。

 米国の心理学者、シュナイドマンらが創案した手法で、家族や親しかった人、主治医らから、生前の状況を聞きとり、生活歴や死に至るまでの行動、仕事や経済的な状況といった幅広い観点から情報を集め、分析する。

 ■項目ごと消えた科学的アプローチ

 第1次大綱では、基本施策を列挙した「自殺を予防するための当面の重点施策」9項目のトップ「自殺の実態を明らかにする」の中に明記された。大綱本文を引用する。

 「社会的要因を含む自殺の原因・背景、自殺に至る経過、自殺直前の心理状態等を多角的に把握し、自殺予防のための介入ポイント等を明確化するため、いわゆる心理学的剖検の手法を用いた遺族等に対する面接調査等を継続的に実施する」

 第2次大綱でも、重点施策のトップにほぼ同様の表現で書き込まれている。しかし、17年からの現行の大綱では「当面の重点施策」が12項目に増えたのにもかかわらず、「自殺の実態を明らかにする」という項目は丸ごと消え、「地域レベルの実践的な取組への支援を強化する」に置き換わっている。

 第1次、第2次に盛り込まれた心理学的剖検は、国立精神・神経医療研究センターに設置された自殺予防総合対策センターによって取り組まれ、2016年春までに100例以上について、情報を集め分析していた。

 ■国も自治体も研究を放棄

 第3次大綱から外れたのは、これによって自死の実態は、もう十分明らかになったと判断されたからだろうか。いや、研究はまだまだ途上だった。また社会状況の変化によって自死の実態も変わっていくから、この研究には終わりはない。

 例えば、コロナ禍によって生きづらさの理由や質も変化しているはずだ。しかし、驚くべきことに今、それを解き明かす臨床的研究は、国レベルでもや自治体レベルでも取り組まれていない。

 中絶した心理学的剖検の成果は、多くの論文にまとめられているが、一例として精神科治療との関係を分析した結果を紹介する。

心理学的剖検に取り組んだ自殺予防総合対策センターでセンター長を務めた竹島正さん

 心理学的剖検の対象とした人で、亡くなる1年以内に精神科を受診していた人はほぼ半数に上り、女性と若い人にその割合が高かった。処方された向精神薬を過量摂取した状態で自死を実行した人が多く、精神科医療における薬の処方の問題が浮かび上がったことになる。

 ■自殺統計原票の限界

 ではこうした詳細な調査もないのに、しばしば自死に至る実態や動機が明らかになったかのように報道されるのは、何に基づいているのか。

 例えば、NHKは2月1日、宮崎大などの研究チームが20年1月から21年5月までの自死の理由を分析した結果、女性で「子育ての悩み」や「夫婦の不和」といった家庭問題が増えていると報じた。この分析の基になっているのは、警察庁データである。

 遺体が見つかると、警察は事件性があるかどうかを判断するため、死亡状況や遺書の有無を調べ、遺族や関係者に事情聴取する。自死と判断した場合、ケースごとに自殺統計原票を作成する。研究チームはこれに記載された動機を分析したのだ。

 誰にも簡単に想像できることだが、自死の直後、遺族は混乱の中にいる。ショックや悲しみ、悔いに覆われ、その人の死そのものを受け入れることさえ困難な人もいる。自殺統計原票に記される動機は、そうした状況下における聴取や残された記録から、警察が分類したものだ。複合的な原因や背景を立体的に明らかにするという点では、もともと限界がある。

 ■命に向き合わない国

 自死の統計は、人間から名前や顔をはぎ取って、性別や年代、動機別に分類し、数字として積み上げていく。これに対して、心理学的剖検は個別の死に接近し、死者のつらさや苦しさの理由を丁寧につまびらかにしようとする。

自殺防止に取り組むNPO法人を訪れ、SNSを活用した相談の様子を視察する菅首相(当時、中央)=2021年3月30日午後(代表撮影)

 いま、国の施策は前者の統計的・疫学的手法に頼る“一本足打法”になっている。それは科学性に欠けるという以上に、一人一人の死者の人生や遺族の思いに向き合おうとしていないと評価するべきかもしれない。

 いったいなぜ、このようなことになってしまったのか。

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