黒人初のNHL選手ウィリー・オリーさん、背番号が永久欠番に 次世代のために戦い抜いた

1960年、ブルーインズ時代に試合に備えるウィリー・オリーさん=ニューヨーク(AP=共同)

 人種の壁を破った黒人初の大リーガーになぞらえ、北米プロアイスホッケーで「NHLのジャッキー・ロビンソン」と呼ばれるウィリー・オリーさん。彼の功績をたたえ「22」をブルーインズの永久欠番とするセレモニーが1月18日、本拠地ボストンで行われた。NHL初の黒人選手としてデビューしたのは64年前のこの日。現在、86歳となったオリーさんは「胸がいっぱい」と感慨に浸った。新型コロナウイルス禍のためリモート参加となり会場にこそ駆け付けられなかったものの、偉大な功労者に称賛の声が集まった。(共同通信=木村督士)

 ▽続く世代のために

 式典で流れた映像では、レンジャーズで現役の黒人選手、ライアン・リーブズが「黒人や有色人種の選手が増えてきているのも彼のおかげ」と感謝の言葉を述べ、「後に続く世代に機会を与えてくれた。彼こそが『どんなに人種差別やヘイト(憎悪)が自分に向けられても、大好きなスポーツをプレーするんだ』と言ってくれた人。後の世代のために戦い抜いてくれた」と存在の大きさを証言した。

永久欠番セレモニーについてオンライン会見するウィリー・オリーさん=1月18日(共同)

 ▽逆境を乗り越えて

 オリーさんは58年に黒人選手として初めてNHLのリンクに立った。初のアジア系として1947~48年にレンジャーズでプレーした故ラリー・クウォンさんに続き、人種の壁を破った。当時の取材に対し「最高に感激している」と思いを表現している。

 壮絶な逆境を乗り越えてきた。カナダで育った13人きょうだいの末っ子で、祖先は奴隷だった。所有者の名前を奴隷の呼び名にも使っていた時代の習慣により、フランス系移民の家系だった奴隷主と同じ発音の「オリー」が姓となった。デビュー前にはパックが当たって右目の視力をほぼ失った。医師から「ホッケーはできない」と告げられても「見えないことは忘れ、見えることに集中しよう」とNHLの夢を諦めなかった。

会合に出席するウィリー・オリーさん=2019年7月25日、ワシントン(AP=共同)

 選手やファンから、心ない言葉を浴びせられ続けたという。激しい接触プレーが多く、現代でも殴り合いがよく起きる競技。ブラックホークスのエリック・ネステレンコに差別的な言葉とともにスティックで殴打され、鼻と歯を折られたと過去にカナダ放送協会などで明かしている。

 ▽ロビンソンさんとの縁

 一足先に大リーグで黒人選手のパイオニアとなっていたロビンソンさんには、10代の時にニューヨークで出会っており、寄稿サイトの「プレーヤーズ・トリビューン」で当時の様子を振り返っている。野球もプレーしていたオリーさんは「初めまして、ロビンソンさん」と名乗って握手。「自分は野球選手でもありますが、本当に好きなのはホッケーなんです」と伝えると、ロビンソンさんは「黒人の子もホッケーをプレーするとは知らなかった」と優しく答えたという。

2008年1月、NHL初の黒人選手としてのデビューから50年を記念するセレモニーで観衆に手を振るウィリー・オリーさん(左)=ボストン

 NHLでプレーするという夢をかなえた後の62年には、全米黒人地位向上協会(NAACP)の昼食会で再会を果たした。ロビンソンさんは握手しながら「ウィリー・オリー、君はブルックリンで会った若者だね」と声を掛けてくれたという。

 ▽次世代への思い

 NHLでの出場は45試合にとどまったが、プロ選手として21年を過ごし、引退後は自身の経験を若者に伝えてきた。功績が認められ、2018年には殿堂入りを果たしている。

 ボストンでの永久欠番のセレモニーでは、「22番」の意義について「与えられた番号で当時は(特別な思いは)なかった」と打ち明けながらも、「でも振り返れば、自分は22歳の時にNHLでプレーする夢をかなえた。氷上でスケートした時に感じた喜びを思えば、これからデビューを果たす次世代の選手たちが感じるであろう喜びに思いが至る。自分はいつだって次世代の選手たちの力になりたいと思ってきた」と後進の選手たちへの思いを口にした。真摯な言葉に、ファンや現役選手たちも耳を傾けた。

ウィリー・オリーさんの永久欠番セレモニー=1月18日、ボストン(USAトゥデー・ロイター=共同)

 オリーさんは遠く離れたサンディエゴの自宅から、ゆっくりとリンクに掲げられる自身の背番号に、惜しみない拍手が送られる様子を見届けた。オンライン会見では「少年や少女が見上げた時に、強く念じれば何でもできると思ってほしい」と誇らしげに語った。

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