<音楽>文化を希求「ジャズの街」 軍港ならではの曲 今も サセボのキセキ 市制施行120周年⑤

一流ジャズの演奏に盛り上がる会場=2000年10月、佐世保市干尽町

 佐世保にはどんなメロディーが響いていたのだろう-。戦前は軍港の街を象徴するように海軍の影響を受けた音楽が流れていた。戦争が終わると、人々の間に自由に音楽を求める動きが広がっていった。さまざまなジャンルがある音楽の中でも、佐世保は「ジャズの街」として知られるようになった。
 1887(明治20)年、佐世保鎮守府の建設工事が始まった。当時、「軍港草分け数え唄」が流行。歌詞には「金比羅山までみな掘り崩す」「岩にかけたる地雷火で、けが人死人が数知れぬ」とあり、山を切り崩し、海を埋め立てた大規模で過酷な工事の様子が伝わってくる。
 元海上自衛隊佐世保音楽隊で、佐世保の歌を調べている榊隆さん(72)は「海軍軍楽隊を中心にして、佐世保に音楽文化が誕生し発達してきたと言っても過言ではない」と強調。ほかにも、「佐世保海兵団団歌」「軍艦行進曲」など軍港ならではの曲があるという。現在でも、海自佐世保音楽隊は艦船入港の際やイベントで、軍艦行進曲を演奏している。
 佐世保市史によると、戦前の佐世保では、海軍の士官夫人に音楽愛好者が多く、中央で活躍している音楽家を招いて音楽会が開かれていたという。1940年ごろ、音楽同好会が演奏会などの活動を始めたが、戦争が激化したため、活動を停止した。
 45年8月、日本が敗戦。市民は将来の展望も見えず「ぼうぜん自失のありさまであった」(佐世保市史)が、46年になると、これまでの軍国主義から解放され、平和と文化国家を作る流れの中で、音楽を求める動きが広がりを見せたという。

 佐世保には戦後、米軍が進駐。50年代は朝鮮戦争特需で大いににぎわった。外国人バーやダンスホール、キャバレー、クラブが立ち並び、あちこちでジャズの生演奏が響きわたる。全国から200人以上のミュージシャンが集まり、「ジャズの聖地」とも呼ばれた。だが、朝鮮戦争の休戦などによる基地縮小で、店も客も徐々に減っていった。
 かつてのにぎわいを再燃させたのが、ジャズスポット「いーぜる」の店主、山下ひかるさん(故人)。91年にジャズフェスティバルを立ち上げ、干尽公園で開いた野外ジャズコンサートでは、4千人が詰め掛け、人々は約6時間のライブを楽しんだこともあった。フェスは形を変えながらも続いている。
 佐世保からは世界的なミュージシャンも誕生した。自身が参加するジャズバンドの作品が2度も米グラミー賞に輝いた小川慶太さん。佐世保で音楽を始め、今は米国を拠点にドラマー、パーカッショニストとして活躍している。
 新型コロナ禍は音楽界から演奏の場を奪った。だが、「いーぜる」の現在のオーナー、前田和隆さんは、定期的にライブを開催するなど活動の火をともし続けている。今年は、2年連続で延期になっていた「佐世保JAZZ」を10月に開催予定。前田さんは「観光客がいつ佐世保に来ても、ジャズを聴けるような環境にしたい」と話した。

ジャズスポット「いーぜる」で演奏する前田さん(左)ら(前田さん提供)

◎九十九島の美しさ 題材に 「美しき天然」「西海讃歌」

 九十九島の自然の美しさを題材にした名曲も生まれている。
 「美しき天然」は明治時代、佐世保海兵団の軍楽隊長の故田中穂積氏が九十九島などをイメージして作曲した。日本初のワルツ曲ともいわれている。
 「西海讃歌」は、1969年、佐世保市民管弦楽団の理事長を務めた富永雄幸氏から依頼を受けた作曲家の團伊玖磨氏が、平戸出身の詩人・藤浦洸氏(いずれも故人)の詩に、曲を付けて完成させた。副題は「佐世保市民に捧(ささ)ぐ」。テレビの天気予報で使われるなど県民に親しまれた。

 =次回のテーマは「鉄道」。23日掲載予定です=


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