波瀾万丈な歴史!「奈良の大仏」について絶対知っておきたい5つのこと

修学旅行でも訪れることが多い奈良のお寺といえば「東大寺」でしょう。境内にある大仏は、奈良のシンボル的な存在で、誕生したのは今からおよそ1300年前のこと。そこで今回は、「奈良の大仏」について知っておきたい5つのことをご紹介します。大仏は誰によってどのような目的でつくられたのでしょうか? 大仏の知識を深めてから東大寺を訪れると、また違う角度で大仏様を眺めることができるかもしれません。

奈良の大仏の「大きさ」は?

座高は14.98m、顔の長さは4.13m、銅座の高さは3.04mもある大仏の高さは、約18m、重量は約250tにおよびます。なぜこれほど大きな大仏をつくったのかといえば、お釈迦様の身長を10倍することで、無限大の宇宙を表現したと考えられています。

また、中国洛陽の龍門奉先寺の大毘盧舎那仏をモデルにしたとされており、「大仏様」といわれていますが、正式な名前は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」です。

「なぜ」つくられたのか?

奈良時代は、政治的な争いや干ばつ、飢饉、凶作、大地震、度重なる天然痘の大流行などで苦しい時代でした。

東大寺はそんな奈良時代に聖武天皇が、仏教の考えと国を守るために建てたお寺です。そのため、 743年に聖武天皇が「生きとし生けるものが共に栄えること」を願い、「大仏造立の詔」を発して、大仏がつくられました。

しかし、大仏は戦火により、2度も燃えてしまいます。そのたびに修復され現在の姿に。主に大仏のお腹から脚、そして台座にかけては奈良時代につくられた部分が残っています。

「誰によって」つくられたのか?

大仏様をつくった人を特定することは容易ではありません。しかし、お松明で有名な東大寺の修二会(しゅにえ)で読み上げられる過去帳によると、「盧舎那仏造顕の詔」を発した聖武天皇のほか、国中公麻呂、国中連公麻呂が大仏の造像と大仏殿建築の総指揮をとり、高市真国(たけちのさねくに)が大仏の鋳造の指揮をとったのではないかと考えられています。

また、大仏と大仏殿の造立には、なんと当時の人口の約半分である約260万人の人々が協力したそうです!

大仏様の開眼の導師を勤めたのはインド人僧侶だった!

752年には大仏様の目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式「大仏開眼供養会」が行われました。このとき、開眼の導師を勤めたのはインドの僧侶である、波羅門僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)なのだそうです。さらに、中国や朝鮮など諸外国の音楽や踊りが披露され、東アジアで最大級の国際イベントになったとのこと。

奈良時代に国際イベントが行われていたとは、驚きですね。どのようなイベントだったのかアレコレ想像が止まりません。

大仏殿は最初につくられたものより小さくなっている!?

木造の建造物として世界最大級を誇る大仏殿ですが、1180年の源氏と平氏の戦いのなかで、平重衡の南都焼き討ちにより焼失。まもなく大仏様とともに大仏殿は再建されますが、1567年の三好・松永の乱により再び焼失します。その後、大仏様は約120年間雨ざらしに。

しかし、17世紀後半、公慶上人がなんとか江戸幕府の許可を得て、大仏様は修理され大仏殿も竣工。ですが資金が足りず、最初の大仏殿よりも小さくなったそうです。

波瀾万丈な奈良の大仏のこれまでの歴史……。知れば知るほど奥深いですよね。東大寺を訪れたら「東大寺ミュージアム」にもぜひ足を運んでみてください。「東大寺の歴史と美術」をテーマに展示が構成されていて、より詳しく東大寺が歩んできた歴史を学ぶことができますよ。

参考:[東大寺公式HP][奈良市観光協会HP]

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