<鉄道>石炭とともに人も輸送 広がる行動範囲 市の発展の土台に サセボのキセキ 市制施行120周年⑥

佐世保軽便鉄道も通った橋の跡を指す井上さん=佐々町

 1889(明治22)年の旧海軍鎮守府開庁を機に、人口が急増した長崎県佐世保市。海軍とともに歩み出した市のさらなる発展の土台となったのが、地元の政治家が中心となって大正時代に敷設した佐世保軽便鉄道だ。国策として増産された石炭運搬を主な目的とした鉄道は、人の行き来も可能にし、地域に潤いをもたらした。
 北松佐々町の佐々川沿い。軽便鉄道を調べた井上順一さん(80)が指さす先には、川に向かって突き出すコンクリートがあった。「あれは軽便鉄道が通った橋が架かっていた跡。対岸の小佐々町と結び、次第に人の行動範囲も広がった」
 軽便鉄道が開通した時代は日露戦争、第1次世界大戦と戦争が続いた混乱期。日本が富国強兵政策に乗り出し、蒸気で動く機関車や軍艦などの燃料に石炭を使っていた時代だ。

軽便鉄道の路線図

 石炭需要の急増とともに佐世保近郊で次々と炭鉱が操業を開始。石炭価格が上昇する一方、産業として発展するには石炭を運ぶ手段が弱く、課題が残った。

上佐世保開通を祝う軽便鉄道の列車(佐世保市立図書館所蔵)

 この状況に目を付けたのが世知原出身の政治家、中倉万次郎。県議などを経て衆院議員として副議長もした人物だ。中倉は炭田が活気づく1918(大正7)年に佐世保軽便鉄道会社を設立。20年に産炭地の柚木と大野を通って積み出し港の相浦までをつなぐ軽便鉄道を開通させ、翌年には大野から南下して上佐世保(現在の俵町)を結んだ。

軽便鉄道の敷設に尽力した中倉万次郎(佐世保市教委提供)

 レール幅が762ミリしかない小型の軽便鉄道の輸送力は大きくなかった。郷土史家の朏由典さん(73)によると人が走った方が早いくらいだったが、石炭輸送は格段に便利になったという。
 昭和の時代に入ると、中倉はさらに線路を延ばしていく。水深が深く、石炭の船積みに条件がいい臼ノ浦港(小佐々町)に目を付け、延伸工事を進めた。既に世知原-佐々間を走っていた松浦炭鉱の降炭鉄道を買収し、世知原炭鉱の石炭を臼ノ浦から運び出すよう整備。沿線の村々では石炭開発が進み、人口が増えていった。最初は石炭だけを運んでいたが、そのうち人も乗るようになり、人々の行動範囲も広がった。
 中倉が亡くなった36年、鉄道省が軽便鉄道の全線を買収。全線のレールを標準幅の1067ミリに改修し、今の松浦鉄道(MR)につながる交通網が形作られた。
 人の流れを作るきっかけの一つとなった軽便鉄道。人が集まる場所に商店街や食堂、旅館、遊技場なども開業し、佐世保は一大消費都市になった。佐世保史談会の中島眞澄会長(82)は「経済を発展させ佐世保の浮揚につなげた」と中倉の功績をたたえる。

 =次回のテーマは「スポーツ」。26日掲載予定です=

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