感受性と文才、東大も狙えた愛子さまの「資質」 15年見続けた記者、圧巻の会見に抱いた深い感慨

成年に当たり、初めて記者会見される天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=17日午後、皇居・御所「大広間」(代表撮影)

 天皇、皇后両陛下の長女愛子さまを絶賛する声があふれている。17日の記者会見での穏やかでにこやかな話しぶりと、あらゆる人々に心を配る言葉の選び方、そしてにじみ出る気品に、15年以上愛子さまを見続けてきた記者として、深い感慨を持った。「これほど立派な大人の女性に成長されたのか」というのが率直な気持ちだ。幼少の頃「決して笑わない」とも言われた女の子が、ここまで見事な会見を実現させるに至った道のりを思わずにいられない。(共同通信=大木賢一)

 ▽カメラの放列におびえた幼少期

 手元に取材メモがある。2006年7月、当時の皇太子(現在の天皇陛下)ご一家が、静養のため栃木県の那須御用邸へ向かう途中、JR那須塩原駅で約200人の人々の出迎えを受けた際に記録したものだ。

 宮内庁担当となってからまだほんの数日で、両親の足元に隠れるようにしている4歳の愛子さまがとても気になった。「薄いブルーのワンピースに白カーディガン」と服装を記した後、「雅子さんは笑顔 愛子ちゃん笑顔ではないが仕草自然に見える」「キョトンとした表情」「少し戸惑って沿道を振り返った」などと書かれている。

記者が取材メモに残していた、2007年当時の東宮御所前の雅子さまと愛子さま

 その頃、どんな場面でも愛子さまが笑顔を見せることは、少なくとも記者たちの前では全くなかった。いつもカメラの放列におびえているように見えて痛々しかった。適応障害と診断され、公務を休んでいた母の雅子さまが、バッシング報道を受ける姿からも何かしらを感じ取り、そのことが幼い心に少なからぬ影響を与えていたように思う。そうして笑わない愛子さま自身にも、心ない中傷が向けられることがあった。

 ▽「将来、どんな立場になっても」

 ただ、報道陣のいないところではごく自然な表情を見せる子だったという。当時の東宮職幹部は「普段はよく笑っていますよ」と話していたし、偶然、東宮御所で壁越しに無邪気な笑い声を聞いたこともあった。

 その後、学習院初等科2年の時、同級生に「乱暴な振る舞いの男児」(宮内庁)がおり、それをきっかけに学校に行けなくなった時期があった。不登校を解消してからも雅子さまの「付き添い登校」が約1年半続き、その母子の姿自体が週刊誌で「過保護」などと批判された。

 しかし、両親の愛情は惜しみなく注がれた。天皇陛下は05年の記者会見で愛子さまの養育方針について質問され、「どのような立場に将来なるにせよ、一人の人間として立派に育ってほしいと願っております」と答えた。当時は、小泉政権により女性天皇実現を目指した皇室典範改正が論議されていた時期。愛子さまが「将来の天皇」となる可能性も考えられて養育されていたことがうかがえる。

皇太子さま(当時)と雅子さま、愛子さま=2005年11月、東京・元赤坂の東宮御所(宮内庁提供)

 陛下は同じ会見で、米国の家庭教育学者の詩を紹介し、「可愛がられ 抱きしめられた子どもは 世界中の愛情を感じとることを覚える」と語った。

 雅子さまは、付き添い登校などの行動が皇族としてふさわしいのかどうか悩みながらも「何があっても必ず我が子を守る」との強い意思を周囲に話していたという。やがて雅子さまの回復に歩調を合わせるかのように、愛子さまはいつしかカメラの前でも笑顔を見せるようになった。

雅子さまと愛子さま=12年10月、東京・元赤坂の東宮御所(代表撮影)

 ▽驚嘆された「広島の作文」

 愛子さまの高い感受性と文才に驚嘆の声が上がったのは、学習院中等科の卒業文集の作文が公にされた時だ。タイトルは「世界の平和を願って」。作文はこんなふうに始まる。

  ×  ×  × 

 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。(引用終わり)

 ▽平和記念資料館で受けた衝撃と「平和」

 原爆ドームを目の前にして足が動かなくなったこと。平和記念資料館の見学で衝撃を受け、平常心で見ることができなかったこと。そうした気持ちをつづった後、作文はこう続く。引用が少し長くなるが、読んでいただきたい。

  ×  ×  ×

 原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。(中略)

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときは、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。(引用終わり)

 ▽「東大も狙える」ほどの明晰さ

 

「新年祝賀の儀」での愛子さま=1月1日、宮殿・松の間(代表撮影)

 作文だけでなく、愛子さまの詠む和歌も評価が高い。学習院女子高等科時代には「学び舎の 冬日あかるき 窓の辺に 集える友の 影重なりて」との歌が披露された。

 初めての参加となった22年1月の歌会始めのお題は「窓」。短期留学の前の気持ちを「英国の 学び舎に立つ 時迎へ 開かれそむる 世界への窓」と詠んだ。

 もともと頭脳の明晰さは「東大を狙えるほど」(皇室関係者)だったという愛子さまだが、受験競争という道は選ばず、内部進学で学習院大文学部へと進んだ。現在は2年生で、源氏物語など日本文学を学んでいる。

 ▽長所は「どこでも寝られるところ」というセンス

 17日の記者会見を見た国民からは「堂々としていて圧巻だった」「表情や言葉がとても自然」「わざとらしさや無理をしている様子が微塵も感じられなかった」といった声が上がった。「天皇としての資質」を指摘し、「やはりこの方しかいない」と「愛子天皇待望論」を展開する意見も、少なからず巻き起こっている。

 自分の長所を聞かれ、あえて「どこでも寝られるところ」と身近な話題に落とし込むセンス。両親との思い出についても「サーフボードを浮かべて、そこに3人で座る挑戦をして、見事全員で落下した」ことを挙げた。

 両親から注がれたあふれるほどの愛情が随所に感じられた。「産んでくれてありがとう」という母への言葉には胸を打たれた。天皇、皇后両陛下のことを「陛下」と言ったり「両親」と言ったりするのも、ご一家の普段の様子がしのばれて微笑ましかった。

 ▽天皇陛下から教わった「緊張しないコツ」

 愛子さまは会見中、自分の言葉を語る際には手元の紙を一切見なかった。そのことに関連して「事前にいただいた御質問に対して、なるべく具体的に自分の言葉で自分の思いを皆さんに知っていただけるように伝えたいと思って準備してまいりました」と話した。侍従職幹部は「事前に覚えていったのだと思うが、決まった言葉を覚えようというよりも、自然に覚えたのが強いと思う」と振り返る。記憶を読み上げるような不自然さはどこにもなかった。

初の記者会見場の様子=17日午後、皇居・御所「大広間」(代表撮影)

 また、天皇陛下からの「緊張しないためのアドバイス」として「聞いてくださっている皆さんの顔、お一人お一人の顔を見ながら、目を合わせつつ、自分の伝えようという気持ちを持って話していくというのがコツ」と聞かされたことを披露した。

 ▽あらゆる経験の果ての「感謝」

 各種世論調査で、「女性天皇容認論」はおよそ8割程度を占める。今回の会見を受け、「愛子天皇」を求める声がさらに高まる可能性はある。

 女性天皇は小泉政権下で本格論議されたが、秋篠宮家の長男悠仁さま誕生で棚上げとなり、その後は「男系男子維持」が主流となっている。

 こうして皇位継承の論議が揺れ動く中、愛子さまは自分の将来がはっきりと見通せないまま成人した。つらいこともたくさんあったはずなのに、会見で口にしたのは全ての人への感謝の言葉だった。

 「今までの、あっという間のようで長くも感じられる充実した月日を振り返りますと、これまでのあらゆる経験は、多くの方の支えや御協力があってこそ成し得たものであると身をもって感じております」

 あらゆることを包み、乗り越える広い心のゆとりのようなものが、あふれ出ていると感じた。「敬宮愛子」の名の通り、いつまでも人を敬い、人を愛し、自らも敬愛される人であってほしい。

© 一般社団法人共同通信社