驚くほど豊かなゾウの世界 人間中心超える道を 入江尚子著『ゾウが教えてくれたこと』

By 佐々木央

 大きな体、ゆったりした動き、優しいまなざし…ゾウは動物園の人気者だ。では、私たちはゾウのことをどれほど知っているだろうか。人間には見えないゾウの力を知り、人間には聞こえないゾウの声を聞く―。そんな本が出版された。

ゾウが描いた自由画を手にゾウの芸術性について話す江尚子さん

 ゾウの研究者、入江尚子(なおこ)さんによる『ゾウが教えてくれたこと』(DOJIN選書)は、ゾウ研究の最先端を紹介するだけでなく、ゾウとヒトの関係を切り口に、人間社会のあり方まで考えさせる。ゾウが教えてくれることとは。(共同通信=佐々木央)

 ■長い鼻にたくさんの秘密

 ゾウはどんな世界に生きているのか。そのことにまず驚かされる。

 巨体に次ぐ外見の大きな特徴は、長い鼻だ。その鼻にたくさんの秘密がある。

 第一に集音器ならぬ「集臭器」だということ。初めて出会った相手のことを知りたいと思ったら、寄って来てにおいをかぎまわる。「何かをよく調べるには、目だけでも耳だけでもなく、鼻でも調べなければ気が済まない」と説明される。人間は多くを目に頼るが、ゾウは鼻でも相手を知るのだから、より立体的に理解しているのかもしれない。

 鼻で物をつかんだり、食べ物を口に運んだりするのを見れば、ヒトの手の機能を果たしていることが分かる。けれど、赤ちゃんゾウが「鼻しゃぶり」までするとは。鼻しゃぶりの写真が掲載されている。著者による写真説明は「必見の可愛さ」。

鼻しゃぶりするゾウの赤ちゃん(入江尚子さん提供)

 ■「利き鼻」って?

 ゾウの鼻には人間の手と同じように、右利きと左利きがあるという。鼻は1本だけなのになぜ「利き鼻」なのか。当然の疑問には「物を巻き取るときに鼻を巻く方向が、個体によって左右決まっているのです」。

 例えば、木の枝を折るために鼻を巻きつけるときも、食べものを巻き取るときも、右巻きにする個体はいつでも右巻き、左巻きにする個体は常に左巻きにする。なぜだろう。

 入江さんによれば、利き鼻があることによって食べものを効率的に獲得し、食べる動作も速くなるからだ。人間が文字を書くとき、両手で書けるようにするより、片手だけ練習して早く書けるようにする方が、はやく上手にできるのと同じだと考えられる。

 大きな耳がどんな機能を果たしているのか、数トンの体重があるのに歩いているとき、なぜほとんど足音がしないのか。隠された機能や能力が次々に明らかになる。

 ■「決して忘れない」記憶力

 著者の専門であるゾウの認知能力については、自らの研究体験を交えつつ、最先端の知見を楽しく解説する。
 まず、脳の重さが5キロを超え、陸上生物最大であること、脳と体の重量比から見てもヒト・イルカに次いで脳を大きく進化させた動物のトップ3に入ること、脳の形状の特徴や発達過程を押さえた上で、その脳がどんな世界をゾウにもたらしているかに迫る。

 一つは優れた記憶力だ。西洋には「ゾウは決して忘れない」ということわざがある。それを実証した学者の研究を紹介した後、入江さん自身の経験も付け加える。

 上野動物園で飼育されている2頭のゾウは当時、タイから来て約5年。タイで訓練されたタイ語の号令を覚えているかどうかテストした。「マー(こっちにおいで)」や「トーイ(下がれ)」など数語だったが、どのタイ語も正しく理解して反応した。入江さんの感想を引用する。文中の「ウタイ」は2頭のゾウのうち1頭の名前だ。

 ―一番印象的だったのは、ウタイに「マー!」と言ったときの、ウタイのきょとんとした顔! 「あれ? いつもと違う言葉だ…でも、それって、もしかして…」とでも言っているようでした。そしてそのあとは迷うこともなく、きちんと号令に反応していました。もう何年も聞いていない号令を記憶しているだなんて、やっぱりゾウの記憶力は大したものだと感心しました―

 ■津波の予兆を聞く

 鏡に映る自分の姿を自分だと認識できる能力があり、数を数える力にもたけていることが、証明される。実験の方法や経過、データが、簡潔だが具体的に示されるので、すっきりと頭に入る。

ゾウの魅力を語る入江尚子さん

 極め付きはコミュニケーション。ゾウの鳴き声はパオーン、しかし、めったに声を発することがない。そう思っている人は多いだろう。ところがゾウは、人間には聞こえない低周波の音声で、活発に会話しているのだ。録音した低周波の音声を4倍速で再生すると、私たちの耳にも聞こえる音になり、そのことが実証される。

 2004年12月、スマトラ島沖地震で発生した大津波のとき、ゾウが津波を予知したと報じられた。予知でなく、予兆を“聞いた”のだと、著者は言う。津波の時には低周波音が発生し、水中を速いスピードで伝わるので、津波の到達前にゾウはその音を聞き、逃げだしたのだ。

 人間の能力では見えないもの、聞こえない世界があるということを思い知らされる。生きものはそれぞれの感覚で世界を把握し、その世界を生きているのだ。

 ■ゾウが気づかせてくれた

 終章となる第5章は「ゾウと暮らす」。世界各地のゾウとヒトに関わる歴史や文化が紹介されるが、ゾウの現在地は決して明るいものではない。かつて地球上に広く生息していたが、いまアフリカとアジアの一部だけで生き延び、絶滅危惧種に指定されている。近い将来、実在しない動物になってしまうかもしれない。

入江尚子さんとゾウ=よこはま動物園・ズーラシア

 入江さんは終章のまとめとして次のように述べる。

 ―私利私欲のために振る舞う人間が、それを集団で行ってしまうと、地球環境はどんどん破滅していき、最後には人間が暮らすことのできない世界になってしまうでしょう。いま、人間は、自らつくり出した技術によって、自らも制御できないほどの大きな社会をつくり上げてしまいました。2020年に引き起こされた新型コロナウイルスによる世界的パンデミックや、年々増加して世界中で人々を苦しめるうつ病症例数も、その結果引き起こされたものと言えます―

 本書の出版は昨年秋。いま進行する事態を考えれば、戦争という行為こそ、人間の最悪の身勝手と言えるかもしれない。このような人間のありようを変えることはできるのか。入江さんは「おわりに」で自らのゾウとの関わりを振り返り、その中で得た気づきに触れる。それがヒントになるかもしれない。

 ―それまで私は人間であることに絶対の自信のようなものを、無意識のうちに持っていました。しかし、人間はとてもかよわくて、自然の摂理にあらがうことのできないちっぽけな一員にすぎないのだということに、ゾウが気づかせてくれたのです。ゾウとの出会いは、私の視野を大きく広げてくれました―

 人間中心主義からの転換を静かに促している言葉だと思った。

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