皿うどん探訪記(下)商標登録せず「大勢の人に」 茂吉も舌鼓 長崎の文化

外食大手リンガーハットの1号店、長崎宿町店=長崎市宿町

 長崎に根差す和華蘭文化の中で生まれ育まれた皿うどん。もとは中華料理店「四海樓」(長崎市松が枝町)の名物だったはずだが、どのようにして全国的に知られる料理となっていったのだろうか。
 四海樓の創業者、陳平順さん(1873~1939年)はちゃんぽんや皿うどんの商標登録を勧められた。だが、「大勢の人に食べてもらえたら満足だ」と言って請け合わなかった。おかげで長崎では皿うどんを提供する店が次々に出現。細麺の調理の簡単さや汁物より運びやすい点は出前にも好都合だった。やがて家庭でも手軽に作るようになり、普及が進んだ。
 四海樓の現社長、陳優継さん(56)によると、皿うどんのおいしさは四海樓を訪ねた文人によっても広められた。大正時代、長崎で一時暮らした医師で歌人の斎藤茂吉(1882~1953年)も四海樓を訪ね、舌鼓を打った。

斎藤茂吉の歌集「つゆじも」。1919(大正8)年に「四海樓」を詠んでいた(国立国会図書館ウェブサイトより転載)

 皿うどんが全国的に有名になった背景について「金蝶(きんちょう)ソース」を販売するチョーコー醤油(しょうゆ)=長崎市=の社員は「リンガーハットの存在が大きい」と指摘する。
 外食大手リンガーハットは1962年創業。74年、1号店が同市宿町にできた。その後、福岡、関東、関西、東海の順に進出。1月末現在、タイなど海外の7店を含む国内外602店。エリア別の店舗数は東京都77店、神奈川県69店、福岡県63店の順に多い。
 同社によると細麺、太麺を両方提供する体制に地域差はない。だが、細麺と太麺の売り上げの比率は九州で6対4なのに対し、他地域では7対3に広がる。同社広報担当者は「まだまだ他地域では太麺の存在を知られていないのかもしれない」と話す。
 「皿うどんほど面白い料理はない」―。〝皿うどん愛〟をSNSで発信する長崎市在住の移住者、品川正之介さん(30)が皿うどんに出会ったのもリンガーハットだった。中学生の時、地元横浜市の店舗によく通った。だが、太麺の存在やソースをかける文化は知らなかったという。
 長崎に来て、店ごとに味や食感が違うことに驚いた。好きが高じて新地中華街の全店を巡り、店ごとに味の特徴を「濃厚」「淡泊」などの指標で示したチャート表を作成。皿うどんは県民に身近で文化として根付いていると感じる。
 長崎女子短大で長崎食育学を担当する古賀克彦講師は「長崎の特徴を一皿でまとめたような料理」と評する。▽和華蘭それぞれのいいとこ取り▽海の幸と山の幸をふんだんに使用▽交易を通じ豊富に流入した砂糖による味付け―。いずれも皿うどんをはじめ、長崎の郷土料理に共通する特徴だ。
 異質なもの同士が融合した姿に長崎らしさを感じるという品川さんは、こう提言する。「長崎は〝皿うどん文化〟。皿うどんは長崎の文化そのものともいえるのでは」

 県外でのギャップ 驚き

 皿うどん=ざるうどん⁉ 長崎新聞が情報窓口「ナガサキポスト」のLINE(ライン)で実施したアンケートでは、皿うどんを巡って長崎県民と他県民との間で生じたギャップに関するユニークな投稿も。
 沖縄の大学に通っていたという西彼時津町の50代男性公務員は「学食で皿うどんのサンプルを見てビックリ。ざるうどんだった」と振り返る。その後、長崎出身の学生からリクエストがあったのか、細麺皿うどんがメニュー入り。沖縄風の味付けだったという。
 数十年前、首都圏の中華料理店のメニューに皿うどんを見つけ「長崎の味が恋しくなり即注文」したという長崎市の60代男性会社員。出てきたのは「麺がふつうの大玉うどんで、しょうゆ味の野菜炒めみたいな味だった」。
 自由記述で最も多かったのは、だんらんの場での楽しい思い出。「人が集まると聞けば母が電話注文をし、瓶に入ったソースと共に山盛りの皿うどんがやってくる。最後に頼んだのはいつ頃だったかなあ」(長崎市の50代女性)。「コロナ禍の中、みんなでワイワイと皿うどんの大皿を分け合って食べることがなくなりちょっぴり寂しい」(長崎市の50代専業主婦)
 =この連載は報道部・北里友佳、岩佐誠太が担当しました=
                         (2022年3月13日掲載)


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