【特別寄稿】パチンコ産業の歴史①「パチンコの誕生~第1期黄金時代」(WEB版)/鈴木政博

この度、無事に『遊技日本』創刊60周年号を発行する運びとなりました。これも全て皆様方の温かいご厚情、ご支援の賜物と心より感謝いたしております。記念号としてパチンコの歴史を振り返る意味において、今回からは2010年4月号から連載していた「パチンコ産業の歴史シリーズ」を一部加筆・修正して再掲載いたします。

1. パチンコ誕生と名前の由来
パチンコ機の原型は西洋のマシンであるというのが、今では定説となっている。1つは横置き型の「コリントゲーム」が原型という説。こちらはピンボールの原型とも言われており、現在のスマートボールのようなものだ。そしてもう1つは縦置き型の「ウォールマシン」だという説。こちらは壁に取り付けて遊んだことから「ウォールマシン」と呼ばれた。さらに、この両者のいいとこ取りをして組み合わせたもの、との説もある。

ウォールマシンがヨーロッパで誕生したのが1900年。そしてコリントゲームなどのマシンがアメリカから日本へ輸入されはじめたのが1920年だ。ちなみに「コリントゲーム」は日本語名で、最初に輸入・販売した企業名が「小林脳行(株)」だったため、販売会社が小林を「コリン」と読んで「コリント商会」より販売したことから名前が定着した。

日本国内では、1922年には既に、現在のパチンコの原型と思われる遊技機が「パチパチ」「パッチン」などの名称で関西で露天営業を始めていたようだ。1924年には宝塚新温泉にヨーロッパの「ウォールマシン」が設置される。その後1928年には中山工業所が「景品付き球技菓子販売機」を発売。ここまでは縁日やデパート屋上などで子供を中心に人気を博していたが、ついに1930年、愛知県警察部が名古屋で自動遊技機の営業許可を出し、この店が「パチンコ遊技場第1号」となる。これが「名古屋がパチンコ発祥の地」といわれる所以のひとつだ。

翌1931年からは全国的に「一銭パチンコ」が普及する。これは投入口に一銭銅貨を入れると玉が出て、入賞すると一銭、二銭の現金が出るものだったらしい。これに大人も熱狂するようになった。当時はこの「一銭パチンコ」 が関東では「ガッチャン」「ガチャンコ」と呼ばれていたようだ。翌年の1932年あたりからは「パチンコ」という名称が定着。関西では「パチパチ」「パッチン」、関東では「ガッチャン」「ガチャンコ」と呼ばれていた名前が合わさって「パチンコ」になったと言われている。

2. 現在のホール営業の原点と遊技機規制の歴史の始まり
パチンコというネーミングが定着し、全国的に大ブームになると同時に、この1932年には一銭パチンコには規制が入ることになる。一銭銅貨に「皇室の御紋」が入っていたため、御紋の入った硬貨を遊技に使用するのはまかりならない、と言う理由から取り締まりが強化され、大阪府警察部が「遊技場取締り標準」を管下に通したのを発端に、次第に全国的にこの「一銭パチンコ」は禁止され、姿を消していく。

しかし、ここで終わらないのがこの業界の逞しさでもある。 2年後の1934年、全く同じ仕組みだが一銭銅貨ではなくメダルを使用する「メダル式パチンコ」を再度認可取得。これが翌1935年には全国に広がり、パチンコは復活を遂げる。遊技場は、人気獲得のために客が獲得したメダルをキャラメルなどのお菓子と交換をはじめ、ここから「景品交換」という現在のスタイルが始まった。

翌年1936年ごろ、名古屋の藤井文一という人物が、主流だったメダルを入れる方式ではなく、直接玉を入れる「鋼球式(玉式)」を考案。その後は今までの「メダル式」と、この「鋼球式」が混在しながらも、ブームは拡大を続けていく。ところが、このままパチンコ人気が続き繁栄していくと思われた矢先、1937年に 日中戦争が勃発。同年、戦時特別措置令で新規営業が禁止され、1940年には政府から遊技機製造禁止令が出される。そして1941年、太平洋戦争が勃発。翌1942年には戦時対策により、企業整備令とともにパチンコは全面禁止に。パチンコは「非国民的遊技」というレッテルを貼られたまま、戦前のパチンコ文化は終わりを告げた。3. 戦後のパチンコ産業の復興と興と正村ゲージ
終戦後。1945年には早速、進駐軍のための遊技場が再開される。メダル一個が五銭で遊技できたようだが、本格的な復興とは程遠い状況だった。 ところが思わぬところに供給過多があった。戦争が終わった事により、軍事用の7/16インチ (11.11mm)のベアリング球が大量に余ったのだ。それが放出されたため、これをパチンコの遊技球として流用しはじめる。翌1946年には、あの正村竹一氏が名古屋市西区の自宅でパチンコ店をオープン。20台という規模ながらこの店は大繁盛する。

実は、正村竹一氏は本業としてガラス商を営んでおり、元々はパチンコとは無縁だった。 その正村氏にパチンコを知らしめたのが、前述した藤井文一氏だったようだ。戦前に直接玉を入れる「鋼球式」を製品化するために、必要に駆られて訪ねたガラス屋の主人が、たまたま正村竹一氏であり、この時、正村氏はパチンコに興味を持つようになったらしい。

正村竹一氏のパチンコ店は大繁盛が続いた。そこで台数を増やす必要にせまられていたが、当時は増台するにも遊技機がない、という状況だった。そこで正村氏は、自身での遊技機製造を開始する。それまで常識だった、盤面全体にバランスよく打たれた釘こそが、ゲーム性を単調にする原因だとして、「天灯」や「ハカマ」、「逆八の字」などを考案し、さらに風車なども付けた画期的なゲージを完成。1948年、ご存じあの伝説の「正村ゲージ」が登場する。さらに、正村竹一の従兄弟にあたる長崎一男氏が「オール物」を開発。どのチャッカーに入賞しても同じ個数を払い出す仕組みも合わせ、正村ゲージは人気沸騰となった。正村竹一氏は、今では現在の遊技機の基礎を作ったとして「パチンコの神様」と呼ばれている。

4. パチンコ「第1期黄金時代」の到来
1948年、競馬や競輪が「競馬法」「自転車競技法」の制定で合法化されるのと対照的に、パチンコは「遊技」と正式に位置づけられることとなる。同年9月、「風俗営業等取締法」が施行。パチンコは同法に基づく都道府県条例での許可営業となった。また貸玉料金も1個1円に決定。全国で統一されることになる。翌1949年には早くも「風俗営業等取締法」の一部が改正され、貸玉料金は1個2円に、景品上限額は100円までと定められる。

ここからパチンコは完全復興どころか、過去にない大ブームが巻き起こっていく。1949年に4,800店舗だったパチンコ店が、翌1950年には「オール20」が発売。どこに入っても20個の払い出しがある正村ゲージのこの機械は大人気となり、この年のホール数は何と8,400店舗に倍増。翌1951年には、あまりの人気に警視庁が「パチンコの遊び方」を発表し、全国的に18歳未満のパチンコが禁止されるもののブームは衰えず、ホール件数は約12,000店となり、その規模から全国遊技業組合連合会(全遊連)が発足する。そして 極めつけは翌年1952年に発売された「オール20連発式」だ。この機種の人気の高さからこの年、ホール軒数は一気に42,100店舗まで増加。さらに翌1953年には「循環式1号機」と呼ばれる「上皿付き高速連射機」が登場。機関銃と呼ばれて大人気となったこの機種は、一分間に160~180発もの発射が可能であった。そのあまりにも高い射幸性からか、この頃よりこの景品を買い取る「バイニン」と呼ばれるも者も目立ち始める。ピーク時の店舗数は45,317店舗にまでのぼり、まさにパチンコ「第1期黄金時代」が到来した瞬間である。しかし、この黄金時代は長くは続かなかった。

(以下、次号)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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