子ども食堂のパイオニアが目指す、母子の「実家」づくり 食べるだけでは満たせない「その先」へ

寄付で集まった食材の前で笑顔の川辺さん。食材からその日の献立を決める=3月8日、大阪市西成区 (撮影:西沢幸恵)

 子ども食堂のパイオニアとして知られる「にしなり☆こども食堂」が活動から10年の節目を迎える。代表の川辺康子さん(56)は、子ども以外にも多様な人々がつながりを作れる「実家」のような居場所作りのため、食堂を移転・改修する費用を求めるクラウドファンディング(CF)を始めている。当初は「親を甘やかしている」と冷ややかな目で見られながら、「私」をなげうって支援を続けてきた。川辺さんにその思いを聞いた。(共同通信=大湊理沙)

 CFの詳細はこちら https://readyfor.jp/projects/tsunagarinoie

 ▽「おかえり」が響く市営住宅の一室

 「いいの見つけた」。 3月上旬の午後、準備を始めた川辺さんは大型冷蔵庫から30個以上の冷凍メンチカツを見つけて、満面の笑みを浮かべた。寄付で集まった食材の顔ぶれから考えるメニュー。この日はメンチカツ、ビーフシチュー、マーボー豆腐、回鍋肉、トマト、じゃこと青ネギのポン酢あえ。デザートには、でこぽん。ご飯は2升(20合)炊く。ボランティアのスタッフと作りながら、放課後、徐々に集まる子どもたちに「おかえり」と声をかける。

大阪市西成区の「にしなり☆こども食堂」

 午後5時半。「おなかすいた。この時計遅れているよ。もうご飯の時間」と言う男の子の声が響いた。集まった子は一斉に大皿から好きなだけのおかずを盛り、一瞬で平らげた。

 6時を過ぎると、中高生や親子連れが集まり、にぎやかさが増す。「聞いて聞いて聞いて~。バイト決まった~」と大きな声で報告する高校1年の女子。「ご飯がある。あったかい」。母親と2人暮らしで、家では1人の時間が多いという。  

 

 「にしなり☆こども食堂」は、川辺さんが代表を務めるNPO法人「西成チャイルド・ケア・センター」が、大阪市西成区の市営ひらき住宅の一室で週に2度、夕方にオープンしている。毎回30~40人の子どもや親子連れが訪れる。

 この日、子ども4人と訪れた女性は「家で1人の時は食べさせるのに必死で、自分のは冷め切っている。ここなら余裕が全然違う」と話した。

 ▽「クソババア」が「助けて」に聞こえる

 もともと児童館で働いていた川辺さん。自宅に居場所がなく1人で過ごすことが多い子の存在に気付き、2010年から子どもの居場所作りを始めた。

 よくけんかし、言葉も行動も乱暴な子どもたち。「おなかがすいているからかな」と思い、12年に食堂を始めた。まだ「子ども食堂」の名が全国に浸透する前だった。

 当初は「親を依存させ、甘やかすだけ」と周囲に見られた。協力者も少なく、自腹を切って食材を集めたこともあった。子どもも集まらない。近くの公園に行き「ご飯食べに来ない?」と声をかけて回った。「行かねーわ」とやんちゃな男の子たちは寄りつかないが、毎週同じ時間に公園で待つようになった。

 食堂に来るようになっても、けんかばかりする子どもら。「クソババア。おまえの顔なんて見たくねえ」と川辺さんをののしったり、ご飯を床にぶちまけたりもする。幼児が親の愛情を探って取る“試し行動”の多さに「もう辞めちゃおうかな」と、ひとり泣いた日もあった。

「にしなり☆こども食堂」で子どもたちと夕食を取る川辺康子さん

 それでも、またご飯を食べに来る子のことを想像してしまう。「そんな扱いを受けても、次の献立を考えてしまう。おかしいやろ?でも、明日からご飯ありません、なんて言えなかった。『クソババア』が『助けて』に聞こえたんよ」

 おなかがいっぱいになれる。自分の居場所がある。それが分かると、子どもはだんだんと穏やかになっていった。

 ほぼ全ての時間を子ども食堂の活動に費やしてきた川辺さん。1カ月以上自宅に帰れないこともあるというが、出会った親子はこの10年間で数百人に上る。

 ▽食堂で支えられる子、支えきれない子

 ことし3月中旬、食堂にひときわ背の高い中学3年の男子生徒がやってきた。「背、伸びたなあ」とスタッフや食べに来た人から口々に声をかけられる。かつては何を言っても「無理。却下。諦めて」しか言わなかった男の子は特技のサッカーを生かしてこの春、高校に進学する。

 初めて食堂に来たのは小学2年の時。家庭環境は複雑で、訳あって血縁関係のない10代の女性と2人で暮らしていた。食堂の常連だったが、心が満たされていないのか、いつも反抗的な態度を取り続け、すぐに他の子らとケンカを始める始末だった。

ボランティアスタッフとでこぽんの皮を一つ一つむく川辺さん

 食堂との接点を持ち続けたことで、次第に落ち着いていった。生徒自らが「川辺さんやスタッフが長く付き合ってくれて、礼儀とかを教えてくれたおかげで少し大人になれた」と振り返る。

 ただ、生活は安定していなかった。ある日、「中学を卒業したら出て行ってほしい」と同居の女性に言われたと川辺さんに打ち明けた。将来についても「俺は何でもいい」とひとごとのように振る舞った。自分を捨ててしまっているようだった。

 多くの人が生徒に関わり、話し合いの末、離れて暮らしていた母親の元に戻ることになった。高校生活が始まれば忙しくなるが、「手伝いとか必要なら、またここに来ます」と笑う。

 男子生徒との出会いは、「食堂で支えられる子と、それだけでは支えられない子がいる」と川辺さんが考えるようになったきっかけでもある。日常の住まいや生活まではどうしても届かないからだ。こうした出会いをいくつか重ねて、川辺さんは「安心して住める場所」の必要性を感じ、「食堂の先」となる施設が必要だと考え始めた。

 ▽一緒に住んで、暮らしを立て直す

 20年、食堂とは別のマンションの一室に、親子と川辺さんやボランティアが一緒に暮らしながら生活を立て直す「滞在型親子支援」のための場所をつくった。「お母さん自身も、虐待や貧困などしんどい境遇で育った場合も多く、家事を知らない。食堂で落ち着いても、家に帰ればまた元通りでは何も変わらない」との考えからだった。

食事の前後子どもたちは宿題をしたり遊んだり、自由に過ごす

 これまでに計7組の親子がここで数日から数カ月滞在した。ある母子は、川辺さんと一緒に食事の作り方や規則正しい生活の練習をし、計画的なお金の使い方について考えた。また別の親子は、母子だけの関係に疲れたときの避難場所のように利用した。

 この施設でのつながりから、今度は里親に登録する必要性を感じた。周囲が懸命に支えても、さまざまな要因で親が子どもを養育できなくなり、親と子どもが一緒に暮らせなくなるケースはどうしても起きてくる。親と離れることを余儀なくされた子どもを自分たちで受け入れるため、川辺さんは里親となるのに必要な研修も受け始めた。

 ▽地域に弱音を言えるつながりを

 食堂そのものも移転により、機能を拡充させていく。今の食堂は団地の中の一室で行っている。子どもの黄色い声に、周辺住民から苦情が来ることもあり、スタッフははらはらしっぱなしだ。

 移転予定の集会所「長橋老人憩いの家」は以前より広くなり、室内でも走り回れるスペースが確保できそうだという。中庭もある。「心ゆくまで暴れ回ってほしい」と川辺さんは期待する。

お皿に好きなものを、好きな分だけ盛る

 ただ、約40年前にできた建物で、しばらく使われていなかったため、屋根や床の修理が必要だ。家で入浴もままならない子のために新たに浴室も作るといい、改修に約5千万円がかかる。

 そして新施設でも食堂の「その先」が目指される。以前から、川辺さんは外国ルーツの人や、学びの機会を失っていた人のための識字教室や日本語教室を西成区内の別の場所で続けてきた。これらの教室も移転先に持ってきて、世代や性別を越えて地域に暮らす多様な人が集まれる場所にすることが最大の狙いだ。

 今までは親子の「助けて」に独りで奮闘してきたが、「私とつながるだけでは結局ひとりぼっち。ここに集っている人たちにも『(私は)大丈夫じゃない』って言えることが増えれば、それが助けにつながるんじゃないかな」と話す川辺さん。地域を巻き込む形で、食堂の新たな担い手や相談相手が生まれることを期待している。

 ▽「子どもに導かれてるだけ」

 これまで、自主的な子ども食堂の運営のためもあって、公的な資金は入れてこなかった。だからこそ民間の支援が命綱だ。「ここでは善意の輪が広がっているだけ。不思議といろんな人が協力してくれる」としみじみ話す川辺さん。

 

食後、時間をかけてCFのカラフルなポスターを作った女の子

 CFの目標額に掲げていた1200万円は既に集まったが、それだけで資金は足りず、これから企業を回って寄付をお願いして歩く予定という。そんな川辺さんを見て、「なぜそんなにできるんですか?」と思わず問いかけた。するとおおらかな笑みを浮かべながら、短い答えが返ってきた。「子どもがいるから。子どもに導かれるだけやねん」

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