30年前にPL学園を完封 東海大相模の選抜準V右腕が伝えたい「甲子園」の意味

1992年の選抜で東海大相模を準優勝に導いた吉田道さん(右)【写真:共同通信社】

浜松学院・吉田道監督は東海大相模のエースとして1992年選抜準V

第94回選抜高校野球大会は30日に準決勝2試合が行われる。花巻東(岩手)の佐々木麟太郎内野手ら“新2年生”が注目を集めた今大会だが、今から30年前の第64回大会で聖地を沸かせた投手がいた。準優勝した神奈川・東海大相模のエース吉田道(よしだ・とおる)さん。PL学園を完封するなど、強打者をねじ伏せる直球は高校野球ファンの記憶に刻まれている。プロでは結果を残せず1度は野球から離れたが、現在は浜松市の浜松学院高で野球部の監督として再び甲子園を目指している。

1992年の選抜高校野球。マウンドに立つ東海大相模・吉田道さんの存在は圧倒的だった。ホップするような伸びのある直球にカーブを織り交ぜて簡単にストライクやアウトを取る。初戦は「緊張でふわふわしていた」といいながら常盤(福岡)を相手に1失点完投。2回戦は南部(和歌山)を完封し、準々決勝で今岡誠や松井稼頭央(当時:和夫)を擁するPL学園と対戦した。

吉田さんにとってPL学園は高校野球の象徴だった。脳裏に焼き付いているのは、小学校高学年の時に甲子園のスタンドで見た桑田真澄と清原和博の「KKコンビ」。そのPL学園と憧れの舞台で対戦する。ただ、吉田さんは全く名前負けしなかった。

「KK以上の高校球児はいないだろう、桑田さんと清原さんのいないPL学園なら何とか勝負になるのではないかと思っていました」

試合に臨む心境は普段と変わらなかった。松井稼頭央との投げ合いを制して2-0で完封勝利。試合を楽しむ余裕もあった。右腕の吉田さんがマウンドに上がると、PL学園の応援団が陣取る三塁側アルプスが目に入る。描かれたのは大きな人文字。「吉田を倒せ」。吉田さんはPL学園の応援にプレッシャーを感じるどころか、感動していた。「PL学園の応援と言えば人文字が印象的でした。自分の名前を人文字でつくる練習をしてくれたんだと思うと、うれしかったです」。PL学園を倒した吉田さんの名前は一気に全国へ広がった。

近鉄退団後に競輪を志すも不合格、通信制の大学で教員免許取得

準決勝の天理戦は中継ぎで勝利に貢献し、帝京との決勝では再び先発のマウンドに立った。甲子園5試合目の登板で3連投。疲労で握力が落ちていた吉田さんは本来の直球を投げられず、握りを変えてツーシームやチェンジアップのように球を動かして打者をかわした。

相手投手は現在巨人で2軍投手コーチを務める三澤興一。「打席に立って三澤さんの投球を見たら、えげつない直球とスライダーでした。4連投なのに涼しい顔で投げていました。自分は3連投なので疲れは言い訳にならないと思いました」。吉田さんは三澤さんと最後まで投げ合ったが、2-3で敗れて優勝にあと一歩届かなかった。

選抜での活躍もあって、吉田さんは東海大相模3年の秋に近鉄からドラフト2位指名されてプロに入った。だが、肘や肩の故障に悩まされて1軍での登板はなく、4年でユニホームを脱いだ。まだ22歳と若く、足腰には自信があったため、競輪選手を志した。垂直跳びや背筋などの適性検査には合格したものの、実際に競輪用の自転車をこぐ2次試験で不合格。スポーツから離れ、母親が経営する浜松市の飲食店で働くことにした。

再びグラブを手にしたのは、知り合いに声をかけられたためだった。野球塾を手伝ってほしいと依頼され、飲食店で仕事をしながら子どもたちに野球を教えることになった。「野球を通じて成長していく子どもたちを見るのがうれしかったですね。高校、大学、社会人と野球を続けてもらえたら、長期的に成長を楽しめると感じました」。プロ野球選手を引退して4年。吉田さんは高校野球の指導者を目指すと決意した。飲食店で仕事を続けながら通信制の大学に通い、5年以上かけて社会科と情報科の教員免許を取得した。

現在は浜松学院高で野球部監督を務める吉田道さん【写真:間淳】

「楽しく生きる、社会で活躍するために野球をツールにしてほしい」

浜松学院高で野球部監督を務めて10年が経つ。選手の成長を見る喜びを味わいながら、それ以上に指導の難しさを感じている。試行錯誤の連続。就任した当初から、大きく変えた指導方針がある。

「最初は『何で、できないんだ』と口に出していました。ただ、選手はわざと失敗しているわけではなく、自分が教えていないからできないんだと気付きました。高校時代の監督で、今は東海大甲府で監督をしている村中(秀人)さんから『子どもたちの目線に立っているか』と言われたことも指導方法を考え直す転機でした」

監督に就任して3年を迎えた頃から、吉田さんは選手に失敗する理由を説明し、失敗しないための練習を伝えることに力を注いだ。選手を信頼し、練習や生活への自由度も広げた。練習メニューの大枠や狙いは決めるが、詳細は選手たちが考える。吉田さんは意図が伝わっていないと感じた時に指示を出したり、助言したりして軌道修正する。

髪型や服装の方針も変えた。「好きで丸刈りにするのは良いのですが、ルールにするのはずっと抵抗がありました。選手がひたむきに練習していることも、野球を通じて心が成長していることも日々感じています。全てを自由にするのは責任放棄ですが、選手たち自らが考えて判断する自由は必要だと思っています」。3年ほど前に髪型を自由にし、土日の練習で学校に来る際の服装も選手に任せている。

30年前の選抜で野球ファンの記憶に残る投球を見せた吉田さん。現在は監督として、聖地に憧れる選手を後押しする。ただ、選手に強調している言葉がある。「甲子園は目標であって、目的ではない」。吉田さんの財産は選抜で準優勝投手になったことでも、プロ野球選手になったことでもないという。「野球を続けたからこその経験値や出会いが今に生きています。勉強を頑張って武器にする人がいるように、選手には楽しく生きる、社会で活躍するために野球をツールにしてほしいです」。選抜準優勝投手は甲子園出場がゴールではないと知っている。(間淳 / Jun Aida)

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