<商店街>朝鮮戦争特需「何でも売れた」 大型店と競争 “日本一元気”に サセボのキセキ 市制施行120周年⑧完

三ケ町アーケードが完成した1977年当時の様子(佐世保三ケ町商店街振興組合提供)

 長崎県佐世保市中心部には約1キロに及ぶアーケードがあり、直線の長さでは日本一とも言われる。7町にまたがり、松浦・常盤・栄は「三ケ町商店街」、島瀬・本島・上京・下京は「四ケ町商店街」と、それぞれ構成する町の数が名称の由来となっている。
 1889(明治22)年、旧海軍佐世保鎮守府が開庁し、人口が急増。生活必需品の需要の高まりに伴い店舗数が増え、次第に商店街が形成された。94(明治27)年からの日清戦争を機に田中丸商店(現・佐世保玉屋)が佐賀から進出すると、小売店はこれに対抗するため団結するようになる。
 当時栄えていたのは現在の市役所周辺だったが、98(明治31)年の佐世保駅の完成以降、にぎわいの中心は徐々に駅方面へと南下していく。軍港の発展とともに街も成長するが、太平洋戦争末期の空襲で市街地は焼け野原となる。
 戦後の復興を加速させたのが、1950年に始まった朝鮮戦争による特需。米兵相手の店が立ち並び、時計やカメラなどが飛ぶように売れ、飲食店も繁盛した。四ケ町の玩具店で生まれ、現在は節句人形店を営む青木親久さん(77)は「父が1日かけて東京に行き、おもちゃを仕入れて帰ってきた時には、先に到着した商品が売り切れていた。とにかく何でも売れていたね」と懐かしむ。

1950年代後半の四ケ町商店街(させぼ四ケ町商店街協同組合提供)

 当時は島瀬、本島両町は「セントラル商店街」、上京、下京両町は「京栄会」として活動。後に結束し、52年には四ケ町連合大売り出しを実施。58年に「させぼ四ケ町商店街協同組合」を設立し、66年にアーケードが完成した。松浦、常盤、栄の各町は70年、「佐世保三ケ町商店街振興組合」を発足。77年にアーケードを建設した。二つのアーケードは85年につながり、現在の形となった。
 商店街は常に、大型店舗との激しい競争にさらされてきた。97年には市郊外の大塔町にジャスコシティ大塔(現・イオン大塔ショッピングセンター)がオープン。商店街関係者はイベントで街に人を呼び込もうと知恵を絞り、「きらきらフェスティバル」や「YOSAKOIさせぼ祭り」などを開催。専門家から「日本一元気な商店街」と評されるようになった。
 近年は店舗数が減少傾向にある一方、チェーン店も目立つようになってきた。市商店街連合会の竹本慶三会長(72)は「どこの街も同じ店ばかりでは、子どもたちが自分の“古里”を感じにくくなってしまう。子どもたちの思い出に残るような商店街であり続けたい」と話した。

   =おわり=


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