戦争で日本国籍奪われた2世世代=もしあれば子孫も日本が身近に(4)=中国やフィリピン残留孤児には国籍

 「日本政府の日系3世へのビザ申請の条件は厳し過ぎます」という佐藤・フェレイラ・マルセーロさん(3世、43)は、パンデミックに入ってからビザの申請に必要となった在留資格認定証明書が、日本在住の親戚がいないため得ることができない。渡航の予定から既に2年以上の月日が流れたが、今も目途は立たない。
 佐藤さんは日系2世の父親(79)と非日系伯人の母親のもと、サンパウロ州サンジョゼ・ド・リオ・プレット市で生まれ育ち、日本で複数の親戚がデカセギで働いていたことから、18歳で初めて日本に渡った。2年間、長野県に暮らして働いた後、一旦ブラジルに戻り結婚。2004年からは静岡県で働いた。妻が妊娠し、里帰り出産を希望したため、一旦帰国し、その直後にリーマンショックが起こった。
 「すぐに再渡航する予定でしたが、日本で働く多くの日系伯人が帰国を余儀なくされており、私もブラジルにとどまることにしました」
 ブラジルで電気技術者として働きながら日本で就労する機会を待ち、14年に再び日本に渡った。20年1月、家族に会うためブラジルに一時帰国し、すぐに日本に戻るつもりが、パンデミックに突入した。

不測の事態が国籍やビザ取得の問題を引き起こす

 「戦争や経済危機、パンデミックは誰も予想しませんでした。父親が日本国籍を取得できなかったのは戦争という不測の事態で、今はパンデミックでビザの申請が厳しくなりました」
 1951~52年に行われた救済措置で、6千件以上の子どもの出生届けが出され、日本国籍を取得できた。その一方、個々の事情で届出をしたくてもできない人々がいた。
 公式記録による戦前の日本人移民の数は19万6737人。その数値からすると、8年間に生まれた子供の数は1万人どころか2万人、3万人いても驚かない。つまり救済措置を受けられなかった人も多かったことが予想される。
 中国残留孤児やフィリピン残留2世などには日本国籍を取得する道が開かれている。だが、同じように戦争によって日本国籍が取れなかったブラジル日系2世には、その道は残されていない。「1951年には、当たり前ですがインターネットはありません。邦字紙を全員が読んでいたわけでもない。とりわけ、奥地に暮らす日本移民が救済処置の情報を得ることは難しく、期日内に日本の在外公館へ出向くのは大変だったと思います」と佐藤さんは思いを巡らす。
 連載第1回で紹介した日系2世の高木ラウルさんは「もし、日本国籍取得の道がもう一度開かれることがあるなら、長年願ってきたことで、それは嬉しいですよ。私の世代のメリットは、入国時に外国人用の列に並ばなくてよいくらいですが。でも、この30年以上、就労や留学などで日本を往復するようになった日系3世以降にはより現実的な話です」としみじみ語った。(取材=大浦智子、終)

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