注射1本で遺伝子を変えられる?「ゲノム編集」治療の期待と課題 臨床応用の「最前線」を取材した

ゲノム編集治療の開発に取り組む米バイオ企業インテリア・セラピューティクス社の研究開発風景(同社提供)

 体に良い成分を多く含んだトマトや、可食部分が多い肉厚なマダイ。最近ニュースに登場したこれらの食品は「ゲノム編集」と呼ばれる新しい遺伝子改変技術で開発された。使い勝手の良さから、遺伝子の働きを調べる基礎研究や農水産物の品種改良の分野に急拡大しているこの技術を、人の病気の治療に生かす試みが進んでいる。

 開発が先行しているのは、患者の体から細胞を採取し、遺伝子を操作した上で患者の体に戻す手法。さらに挑戦的な試みとして、治療用の物質を注射などで患者に直接投与し体内での遺伝子改変を目指す手法も登場している。この直接投与による治療法で昨年、米国の企業が臨床試験(治験)で有望な結果が出たと報告した。

 がんをはじめ、遺伝子に原因がある病気の新たな治療法になると期待される一方、困難な課題もある。専門家らに取材した現状を報告する。(共同通信=岩村賢人)

 ▽案内役とはさみ

 最初に、ゲノム編集技術とはどんなものなのかを見ておこう。「生命の設計図」であるDNAを操作する技術の一つで、特定の遺伝子を働かなくしたり、新たな働きを持たせたりできる。幾つかの方法が開発されており、中でも2012年に登場した「クリスパー・キャス9」は、DNAの狙った場所に導く「案内役」と、切断する「はさみ」となる物質を組み合わせて簡単かつ効率的な改変を可能にしたため、世界中に急速に広まった。開発者はその功績で、20年にノーベル化学賞を受賞している。

 医療での応用は、体内の異物を攻撃する免疫細胞を患者の体から取り出して遺伝子を操作し、病気の細胞を発見、攻撃する能力を高めてから投与する手法の開発が先行している。白血病や骨髄腫などがんの治療への応用が期待され、実用化を目指して既に治験を始めている企業も多い。

 こうした「体の外で細胞の遺伝子を改変する」手法に加え、国内外では、さらに高度な「病気の原因となっている遺伝子を体の中で直接変えてしまう」という試みも始まっている。

 ▽異常なタンパク質を作り出す遺伝子を壊す治療法

 「1回の投与で病気の進行を止め、改善に向かわせることが可能になりそうだ」

 昨年6月、ゲノム編集治療の開発に取り組む米バイオ企業インテリア・セラピューティクスは、神経や心臓に異常なタンパク質がたまってさまざまな症状を引き起こす難病「トランスサイレチンアミロイドーシス」の患者を対象とした初期の治験データを発表した。

 治験では、46~64歳の患者6人にクリスパー・キャス9を用いた治療薬を点滴で1回投与。患者の肝臓で異常なタンパク質を作り出す遺伝子を壊す方法を試みた。

 28日後に調べると、このタンパク質の血中濃度が大きく低下。体重1キロ当たり0・3ミリグラムを投与した患者では、平均87%減っていた。3人に副作用がみられたが、いずれも軽かった。

 この発表に、日本の研究者からも「画期的な成果だ」と驚きの声が上がった。

 この治療薬は、米食品医薬品局(FDA)から開発資金の補助などの対象になる医薬品の指定を受けた。同社は今年2月、追加のデータを発表。参加する患者数を15人まで増やして、投与する量も多くしている。結果、新たに加わった患者でも異常なタンパク質の血中濃度は大きく下がり、その効果は長く持続していた。

 やはり直接投与法で「レーバー先天黒内障」という遺伝性の目の病気の治療を目指す米企業「エディタス・メディシン」も昨年9月、初期の治験で、治療薬を投与した患者の一部で有効性を示唆する結果が得られたと発表している。

 ▽「網膜色素変性症」の根治目指す

 日本でも挑戦が始まっている。人工多能性幹細胞(iPS細胞)による網膜の再生医療研究をリードしてきた高橋政代さんが設立した「VC Gene Therapy」(神戸市)は、光を感じる視細胞が徐々に失われる「網膜色素変性症」の治療を計画している。

 光に反応するタンパク質「ロドプシン」に関わる遺伝子が変化している人が対象。世界に約9万人の患者がいると推計され、進行が速いと20代で「暗いところで目が見えにくい」といった症状が出てくるという。

インタビューに答える高橋政代さん=2021年5月、神戸市

 ただ、同じ遺伝子でも、病気と関連する変化が生じている場所は患者ごとに異なり、約110カ所あると報告されている。遺伝子の変化一つ一つに対して個別に治療法を開発すると膨大な時間と手間がかかってしまう。

 そこで同社は、患者の網膜の裏側にゲノム編集物質が入った液体を注射することで、異常が起きている遺伝子の働きを丸ごと止めつつ、すぐそばに正常な遺伝子を入れる方法を考えている。

 マウスを使った実験では、病気の進行を抑えられる可能性が示されたという。視細胞で標的とは違う遺伝子を改変してしまったとしても、元々病気で失われていく細胞なので問題は小さいとみている。視細胞は1割ほど残っていれば十分な視力が確保できるという。

 高橋さんは「根治を狙っている。悪い遺伝子の影響が出る前の段階で治療すれば、正常な遺伝子だけが働く」と展望を描く。25年の治験開始を目指している。

 国立医薬品食品衛生研究所の3月時点のまとめによると、ゲノム編集を使った治療法の治験は世界で約40件進んでいる。

高橋政代さん=2021年5月、神戸市

 ▽安全性は大丈夫?

 期待が大きい一方で課題もある。第一は予期しない遺伝子の改変が起きてしまうリスクだ。患者の細胞を体外に取り出し、ゲノム編集で能力を強化するなどして戻す方法であれば、うまく編集できた細胞だけを選ぶことができるが、ゲノム編集物質を投与し体内で遺伝子を改変する手法ではそうはいかない。

 全身を巡る血管に入った治療薬の動きを体内で制御するのは難しく、もし精子や卵子に入って遺伝子を改変してしまうと影響が子孫に及ぶ恐れもある。細胞の増殖に関わる遺伝子の働きを誤って変えてしまえば、がんになるかもしれない。

 狙い通りの場所を改変できたとしても思わぬ問題が生じる恐れも指摘されている。昨年10月に米ハーバード大などのチームが科学誌「ネイチャーコミュニケーションズ」に発表した研究では、クリスパー・キャス9を使ってマウスの受精卵でゲノム編集を行ったところ、DNAがひとまとまりになった染色体自体を切断して壊してしまったケースがあった。想定より切り過ぎてしまったのだ。

 ゲノム編集を活用した研究に取り組む国立精神・神経医療研究センターの井上高良室長は「マウスの受精卵とヒトの細胞ではDNAの状態は異なるかもしれないが、無視できない結果だ」と話す。「実験なら10回に1回の失敗があっても許容できるが、患者の体内でやるなら一発勝負。安全と言い切れないものは使えない」

 もちろん、失敗のリスクを下げるための技術も盛んに研究されている。はさみで切断するのでなくピンセットで物質を置き換えるような「塩基編集」と呼ばれる手法もその一つだし、先に紹介したインテリア・セラピューティクス社はゲノム編集物質を極めて小さい脂質の粒子に包み、働いた後は速やかに分解されて体内に残らないような工夫をしている。

VC Gene Therapy社の研究開発風景(同社提供)

 ▽クリスパー・キャス9の高額な特許料

 応用に向けた課題の二つめに、高額な特許使用料を求められる契約の仕組みがある。クリスパー・キャス9を医療で応用する場合の基本的な特許は、主に米カリフォルニア大バークリー校と米ブロード研究所が所有し、それぞれの関係者が設立した企業が独占的に管理している。特許技術を使うには、治療法開発の対象となる病気や遺伝子ごとにこれらの企業と契約を結び、使用を認めてもらわなければいけない。

 米国では、バイオ企業「バーテックス」がクリスパー・キャス9を使って「のう胞性線維症」と異常ヘモグロビン症の遺伝子治療を開発するため、特許を管理する企業の一つ「クリスパー・セラピューティクス」に一時金で100億円超、開発の進展に応じた対価で3千億円近く、さらに製品の販売に応じた対価も支払う契約を結んだ例がある。

 特許の使用を巡る仕組みがさまざまな病気の治療法開発の足かせになっていないのか。セントクレスト国際特許事務所の橋本一憲弁理士は、高額な使用料と引き換えに、特定の病気や遺伝子において他社の参入を許さずに独占的に治療法の開発を進められるのは企業にとって利点だと解説する。「他社にまねられても良い分野なら別だが、医薬品はそうではない。多額の費用や失敗のリスクを考えると、独占でなければ人や資金の投資ができず、開発が進まない。特許が機能する場面だと言える」と話す。

 それでも数百億円規模の投資となると手が出せる企業は限られる。国内のベンチャー企業関係者は「高額なので、正面から契約して使うのは難しい」とため息をつく。ゲノム編集技術の応用を目指す研究者からは「ある企業に独占されると、他の企業はその病気に手が出せない。時間がかかっても開発できるのは独占契約した企業だけなので競争がなくなる。これはとても大きな弊害だ」という声も出ている。

 橋本さんは「他に良い技術が出てくれば競争が生まれて使用料も安くなるのではないか」と指摘。国内企業が使いやすい国産のゲノム編集技術を開発する重要性を訴える。

 ▽実用化の行方はいかに

 期待と懸念が入り交じる現状。今後どう実用化に近づいていくのか。

東京大医科学研究所の岡田尚巳教授=2021年11月2日、東京大医科学研究所

 ゲノム編集に詳しい東京大医科学研究所の岡田尚巳教授は「体内でゲノム編集を行う手法は重要な技術。治療の幅が広がるのでどんどん進歩させていくべきだ」と強調する。その上で「予期しない改変のリスクを下げる改善策は必要だ。まずは網膜や内耳など局所に投与する方法を実施し、安全性がはっきりしたら全身への投与が視野に入ってくるのではないか」と指摘する。

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