白球を追う、音のない世界で もう一つの野球日本代表、二十歳でつかんだ新たな挑戦

ろう野球日本代表チームの塩冶亮太郎さん

 バットがボールを捉えた瞬間の「キーン」という金属音。スタンドを埋める観客の声援や吹奏楽の演奏。球場に響き渡るさまざまな音は野球観戦の醍醐味のひとつだ。だが野球の中には、そうした音が全く聞こえない世界もある。聴覚に障害がある選手たちだけでプレーする「ろう野球」だ。2021年には日本代表チームも正式に発足し、選手らは世界大会を目指して練習に励んでいる。滋賀県出身で大阪市の専門学校に通う塩冶亮太郎さん(20)もその1人。高校までは健常者と同じチームに所属していたが、一昨年からろう野球を始めた。耳が聞こえない分、目や全身の感覚を研ぎ澄まして、白球を追う。「自分たちのプレーを通して、ろう野球の魅力を多くの人に知ってほしい」。原動力は大好きな野球への思い入れと、支えてくれた仲間への感謝だ。(共同通信=阿部幸康)

 ▽コミュニケーションに悩んだ中学時代

 塩冶さんが野球を始めたのは小学生のころ。父親とのキャッチボールがきっかけだった。小学4年で地元の少年野球チームに入り、その流れで中学、高校も野球部に入部した。

 生まれつき重度の難聴で、近い距離の音は聞こえるが、離れたところから響く音は聞こえない。声を使った会話は、ゆっくりでないとうまく聞き取ることができない。健常者の仲間たちとプレーする中で立ちはだかったのはコミュニケーションの壁だった。

 最初に守ったポジションは外野手。フライを追いかける仲間の「オーライ」という声が聞こえず、エラーをしてしまう。監督や仲間が話していることが分からない。メモを書いたり、ゆっくり話してくれたりする人もいたが、中にはあからさまに面倒な顔を見せる人もいた。やりとりに疲れ、次第に人とのコミュニケーションを避けるようになった。

ろう野球日本代表チームの練習で守備に就く塩冶亮太郎さん

 中学に入ると、練習や試合でミスが続き、さらにコミュニケーションがおっくうになった。今まで一生懸命取り組んできたものが、意味のないことのように感じることも。好きだった野球もやめたくなり、転校を考えるほど悩んだ。

 中学3年のある日、野球部の先生に相談すると、話を聴いた上で「あきらめたらあかんよ」と温かく励ましてくれた。仲間にうまく伝えられず、一人で抱え込んでいた葛藤や苦しみがこみ上げ、思わず涙があふれた。先生の言葉に背中を押され、3年の最後の試合まで投げ出さずに部活をやり抜いた。この時の奮起が「自分にしかできないことに、精いっぱい挑戦しよう」という気持ちの原点だという。

 ▽「塩冶のために」チームメートの理解

 高校は地元の彦根総合高校に進学した。硬式野球部に入り、同級生たちと初めて顔を合わせた時、塩冶さんは「聞いてほしい話がある」と自ら切り出した。「耳に障害があるので、ゆっくり、大きな声で話してほしい」。 仲間たちは「塩冶とともにチーム一丸となって勝てるよう、みんなでコミュニケーションの方法を考えよう」と応え、彼のためのサインを考案し、身ぶり手ぶりで大きなジェスチャーをしてくれるようになった。何度も話し合いを重ね、一緒に悩みながら考えてくれたことがうれしかった。

 塩冶さん自身も努力を重ねた。聴覚に障害がある分、プレー中に意識したのは目で情報を得ることだ。自分の守備位置から、打者の表情や打席でのくせを観察する。味方のピッチャーの球速、投げるコース、バッターのスイング、球場の風向きなどさまざまな判断材料を頭に入れながらプレーする。集中し、感覚が研ぎ澄まされてくると、打球への反応が早くなった。

 送球する時も、ランナーの動きを教えてくれる仲間の声は届かない。どこに投げるべきか、瞬間的に自分で判断する。相手チームの選手一人一人を分析し、展開に応じてどう動くべきか、事前に細かく想定できるようになった。

高校時代、硬式野球部でプレーする塩冶さん(右)

 高校3年の夏の滋賀県大会は、1回戦に左翼手でスタメン出場した。安打でチャンスを作り、仲間のタイムリーでホームに生還し、得点を刻んだ。試合は中盤までリードしていたものの、終盤に逆転を許し、5対9で敗退した。1試合で終わった最後の夏。それでも仲間と野球をやりきった充実感は、かけがえのない思い出になった。

 ▽日本代表選考会でつかんだチャンス

 転機は野球部を引退した後に訪れた。バットをペンに持ち替え、受験勉強に励んでいた塩冶さんのもとに1通の封書が届く。ろう野球日本代表選考会への招待状だった。それまで健常者と同じチームでプレーするのが当たり前だった塩冶さんは、この時、初めてろう野球の存在を知ったという。「障害がある自分だからこそ、挑戦できる舞台がある」。その事実が再び野球への情熱に火を付けた。塩冶さんは迷わず選考会に参加し、日本代表の座をつかんだ。

 全日本ろうあ連盟や日本ろう野球協会によると、これまで聴覚障害者による野球は軟式が中心だった。過去には、日本高野連がろう学校の加盟を認めていなかった時代もあり、硬式の競技人口は少ない。2020年2月現在、特別支援学校などの高等部で聴覚障害者による硬式野球部を設置しているところはなく、全国的な普及が当面の課題だ。

 そのけん引役となる日本代表チームには、台湾やアメリカ、キューバなどの野球強豪国と対戦する世界大会での活躍が期待されている。20年8月は韓国、今年3月には台湾で大会が予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大でいずれも中止に追い込まれた。塩冶さんは「中止は本当に悔しいし残念だが、次の大会こそ、これまで支えてくれた人たちへの感謝をプレーで伝えられるよう前向きに練習に取り組みたい」と静かに闘志を燃やす。

 ▽「障害への理解、広めたい」夢は理学療法士

 日本代表といってもプロの選手ではない。メンバーは皆、会社員や学生としての顔を持つ。塩冶さんもいつもは大阪市の専門学校「大阪医専」の3年生だ。将来の夢は理学療法士。高校2年の時に右の手首を骨折し、献身的な理学療法士の支援を受けながらリハビリを続ける中で、憧れを抱いたという。「病院には一人寂しさを抱えながら、長い入院生活を続けているお年寄りもいた。そういう人たちが早く退院し、家族のいる自宅に帰って笑顔になってもらえるようにサポートしたい」と語る。平日は介護施設の実習や勉強で「自主練する暇もない」ほど忙しいが、時間を見つけては、滋賀県のろう野球チームで、月に2回ほど練習している。

大阪医専でインタビューに応じる塩冶さん

 多忙な中でもプレーを続けられるのは、「野球が好き」という気持ちと、障害のある自分自身を理解し、温かく接してくれた仲間の存在が大きいという。「ろう野球を通じて、障害への理解を広げたい。私たちのプレーを見た人が、困っている人を助けたり、支えたりする優しい気持ちになってくれれば」と話した。

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