「ウイングマン」「Gメン75」「美女と野獣」歌ったポプラ「自由に生きてきた」~岸田今日子との思い出も胸に

歌手のポプラ(72)はライブ、ミュージカルを中心に芸能活動を重ねてきた。1980年代から90年代にかけてはアニメ、ドラマ、CMに歌声を提供してきたが、アニソンや歌謡ショーなどのイベントで歌唱したことは極めて少ない。「遙かなる旅路」(TBSドラマ『Gメン75』)、「Show me your space」(アニメ『OKAWARI-BOY スターザンS』)、「異次元ストーリー」(アニメ『夢戦士ウイングマン』)、「美女と野獣」(ディズニー映画『美女と野獣』)、テレビCM「ヨドバシカメラ」など、当時の代表的な仕事について話を聞いた。

■デビュー52年

デビュー52年。4月8日には汐留ブルームードでライブを行う。コロナ禍で活動停滞を余儀なくされ、久々のステージ。堺敦生(ピアノ)、阿部梓穂(パーカッション)とともに、英語や日本語のバリエーションに富んだ曲を歌唱する。「とにかく集中して、無理はできないのでありのままの自分でやりたいですね。結構プレッシャーですよ」と意気込みを示しつつ「岸田今日子さんは私をジャズシンガーと紹介してくれていましたが、英語曲を歌うと、日本だと肩書がジャズシンガーになってしまうんですよね。昔はいろんな方にジャズ、ポップス、ロック、歌謡曲と何か決めた方がいいと言われましたが、決めてきませんでした。いい曲があったら歌う。今は『私はただの歌い手です』と紹介しています」。柔和な口調で自身の立ち位置を語った。

9歳年上で芸能界にいた姉の紹介でビクターのオーディションを受け、1970年に歌手デビュー。岸田今日子も姉を通じて知り合い、姉が米国に移住後は、2006年に岸田が死去するまで公私ともに親交が深かった。ロシア(当時ソ連)に演奏旅行に出向くなど順調だった芸能活動だが1973年にいったん区切りをつけ、米国でダンサーとして活動していた姉のもとで、ラスベガスやボストンでショービジネス本場の見識を広めた。帰国後はフリーで歌手活動を再開し、振付家の中川久美の指導を受けミュージカル「People’78」に出演。その後再び渡米して学んだミュージカルに、帰国後は情熱を注いだ。

◆「遙かなる旅路」(TBSドラマ「Gメン75」主題歌、1980年)

1980年にミュージカル「Hair」出演時、演出の奈良橋陽子の関係者を通じて日本コロムビアを紹介され、TBSから打診を受けた。「たくさんの方がオーディションで落とされた後に、私の所に話が来たようです。苦労しましたね。ディレクターも迷いがあったのか、(収録は)最初の1回目が良かったのに、その後さまざまなテイクを録ることになって。結局1回目が使われるようになり、疲れてエレベーターで泣きましたよ」。これをきっかけにアニメ、ドラマの仕事が増えた。その後、中川久美との仕事がNHKディレクターとの橋渡しとなり、1982年にはNHK「テレビファソラシド」にレギュラー出演するようになった。「共演した永六輔さんや他の出演者から『遙かなる旅路』を褒められたんですけど、このときから玄人受け、と言われていたような気がします。曲は1年ほど放送されましたが売れませんでしたから」。永六輔の紹介で、松任谷由実や井上陽水らが出演した名門小劇場、渋谷ジァン・ジァンで歌った。評判が良く毎月の公演を打診されたが「体が持たない」と断ったという。ここからCMの仕事も増え出し「SONY Walkman」、「アップルコンピュータ」、「三菱地所」などで歌声を披露。なお、近年のライブでは「遙かなる旅路」を歌うようになった。

◆「Show me your space」(テレビアニメ「OKAWARI-BOYスターザンS」主題歌、1984年)

作詞作曲は鬼才・古田喜昭。「ノリがいい、スピード感がある曲でした。古田さんは私の歌をとても気に入ってくれて、私と一緒に(仕事を)やりたいと、意気込んでもらったんですけどね…」。コンビは1曲限りに終わった。近年のライブで歌唱する機会はないという。「ギリギリの声で(収録したので)もう出ないですね。70代になるとね。まだ60歳くらいだったら良かったな」

◆「異次元ストーリー」(テレビアニメ「夢戦士ウイングマン」主題歌、1984年)

「面白い曲でした。作曲が林哲二さんで、そして竜真知子さんの詞が素敵でした。竜さんはすごく年上の方だと思ったら、私より年下でしたね」。同作では挿入歌「私のPretty Boy」なども担当。しかし当時、アニメファンの前で歌った記憶は2回しかない。「営業は嫌じゃなかったけれど、声はかかりませんでしたね。アニメのイベントにはコロムビアから2回だけ呼ばれました。東京と大阪でしたが、ステージに出たら、ものすごい盛り上がりで、アニメファンはすごいなと思いましたね。私はコロムビアに所属せずフリーだったこともあったのでしょうが、アニメの人じゃない、と思われていたのかもしれません」

当時はミュージカルに注力し、自身のコンサートでは英語曲しか歌わなかった。「バリアを張った覚えはありません。でも自分から(アニソンイベントなどに)出演したい、と営業するのは苦手でしたね。自分のせいでもあるのですが、若い頃にもっと歌えていれば良かったと思います。アニメの仕事は嫌じゃなかったので」と振り返った。

なお、別の漫画作品のイメージアルバム「紅い牙 BLUE SONNET」では、多くの曲で歌を入れ、アルバムは計3枚が発売されたが、今まで一度もステージで歌唱したことがないという。仕事の大半が収録をもって終了するものばかりだったようだ。

◆「ヨドバシカメラ」テレビCM(1985年)

リパブリック賛歌の替え歌で、長く放送された。「初めて行ったスタジオ、テレビ朝日だったのかな。スタジオで初めてヨドバシカメラの仕事だと知ったのですが、オーケストラの打ち込みができていて、音を聴いたらノリノリになって一発で取れました。すごくインパクトが強くて、そのうち、ポプラさんが踊りながら歌っているところを、と言われて映像も撮りました。1クールで終わりと思っていたら、3年くらいやっていたのかな。映画館やいろんな所でも使われていました。私が有名人だったら、莫大な契約金があったと思いますよ。でもCMのことで取材が増え、反響は大きかったですね。私にマネジャーがいたりして営業力があれば、売れていたのかもしれませんね」。

◆「美女と野獣」(ディズニー劇場アニメ「美女と野獣」主題歌、1992年)

1988年「わんぱくダック夢冒険」、89年「チップとデールの大作戦」とディズニーのテレビシリーズ2作品の主題歌を担当。ただし、その流れで劇場版の大役を任されたわけではなかった。「わんぱくダック、チップとデールはコロムビアからの依頼でした。美女と野獣はオーディションで合格者が出なかったようで、たまたまミュージカルをブッキングする人から誘われ、オーディションを受けました。アメリカ側で審査が行われ、私は無名でしたけれど、すぐに決まりました。友人の子どもたちは、私が歌っているのを喜んでくれましたね」。ディズニー主題歌の人気投票が行われると、必ず上位に顔を出す有名曲になった。

数々のアニメ、CMでの歌声提供。振り返ると「どの仕事も(収録に)呼ばれて、歌を入れて、それで終わり、という感じでした。あの頃は私みたいに英語で歌ったりする人が珍しかったんでしょうね」と素っ気ない。アニソンに限れば、同い年で友人だった水木一郎ら、70年代の人気歌手とは異なる歌い手を探していた時流にも乗ったのだろう。

■岸田今日子のゲキ

英語曲で構成された自身のステージ、ミュージカルに注力する中、岸田今日子からは「日本語の曲も歌いなさい」「もっと自分を売り込まないと」とゲキを飛ばされた。テレビ番組では岸田と一緒に旅をし、番組を通じて脚本家の倉本聰と知り合った。倉本がカナダで行われたイベントに招かれた際は、岸田と一緒に参加する機会もあった。

「そんな関係で倉本さんを通して、井上陽水さんや吉田拓郎さんが出演するイベントがあるので、ポプラさんも歌いませんか、と話がありましたが、お断りしました。そんなメジャーな人たちの中にいるのはどうかと思ったからです。私はもう新人じゃなくて40歳を過ぎていましたし。そういうところがダメでしたね、売れていないコンプレックスかな。そういう場面で売り込みたい、という気持ちが私には欠けていました」

ミュージカル時代も大手事務所や、音楽プロデューサーから売り出す企画が寄せられたが、断り続けてきたという。近年になって、過去のアニメソングをステージで披露する企画を打診されることがあっても「もう少し若かったらね。あの時で精いっぱいの歌声は、もう今は出せませんから」と距離を置いている。

名前を売り込む機会を、自ら避けてきたようにもみえる。「それが駄目なんですよ。大して実力もないのに、巻かれていかないんですよ。永六輔さんが応援してくれて、コンサートもやってくれて、NHKのディレクターもかわいがってくれました。でもディレクターには『このやり方では売れない』と言われていました。やはり世間を見て、読む必要があるのでしょう。ただ、そういう意味では自由に生きてきたから、後悔はないですね。ミュージカルの時もたくさん大きな会社からお誘いがあって、話してみたら、方向性が違うので全部お断りしてきました。もし、それで売れてしまっても、私は不器用なのでぼろぼろになっていたと思います」。もったいなさを認めつつも、正しい選択を行ったという自負がある。

日本で活動しながらも「お金は全部アメリカに投資しましたね」と話すように、渡米を繰り返した。そして、2006年に岸田今日子が死去してからは、ライブで日本語曲も歌うようになった。

「最期も見届けて、本当に家族のようにしていただきました。今日子さんには私が英語の歌だけを歌うのを『絶対に良くない。日本語でも歌いなさい』とずっと言われていたけれども、年を取ってから、日本では日本の歌も大事だと分かりましたね。今日子さんも若い頃に海外の芝居を演じていた時、日本人として国民性も違うから、向こうの作品だけでは限界があると分かっていたんでしょうね」。

現在は「ウイングマン」の曲を「キーを落とすのはむなしいんですけど」と照れ笑いしつつ、時折披露するようになった。ライブ会場に、当時のファンが訪ねてきたこともある。

「フランスの方がいらっしゃって、向こうで私が歌った曲が人気だと教えてもらいました。今もメールが来ますね。数年前には『ウイングマンのファンです。お腹に赤ちゃんがいるんです』と来てくれた夫婦がいました。その子がもう小学校に入るようです。最初に会った時から随分と時が経っているのに今でも応援してくださっています」

金銭的な裕福には遠くても、80年代からの仕事は歴史に残り続ける。「やっぱり音楽が好きなんでしょうね。純粋で神聖な世界で、自分がどう生きるか、突き詰めてやってきました。自分にも厳しかったのは、音楽が素晴らしいからです。私はシンガーソングライターじゃないから、与えられた曲、ありものの曲をやるけど、その1曲1曲に世界がある。私が表現したらどうなるか、大変だけど面白い仕事ですよ。でも、もうちょっとお金持ちにならなきゃいけなかったかな」。自嘲気味な内容とは裏腹に、表情も口調も明るく笑い飛ばすように語った。

「先は何も考えず、今できることを一つずつですね。恥をさらしても、最後までちゃんとやりたいと思います。見届けたいと思っている人もいると思いますから。歌うことしかできません。それと、岸田今日子さんの追悼公演を亡くなった2年後にやったのかな、今日子さんの歌った『動物の12カ月のうた』というプログラムを、もう一度やりたいですね」

姉は米国で健在だといい「私より元気なくらいですよ」と笑った。長身の背筋を伸ばし「私は、色々大変なこともありますが、自由に元気にがんばってきたので幸せだと思っています」と、胸を張ったポプラ。これまでもこれからも、喜びや悲しみも全て、歌声で包み込んでいく。

レコード「夢戦士ウイングマン」のジャケット (C)桂正和/集英社・テレビ朝日・東映動画

(よろず~ニュース・山本 鋼平)

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