80年代ディスコ★パラダイス!フロアを熱狂させた “あの歌謡曲” とは?  確かにあった! 新宿のディスコビル “東亜会館” を席巻した高校生主体のディスコムーブメント

彼らが思いを馳せる新宿のディスコビル“東亜会館”

“ディスコ” というワードに懐かしさを感じるようになって、相当な年月が経つ。

90年代初頭にはすでにディスコは衰退の一途をたどっていた。1991年にオープンしたジュリアナ東京など “大バコ” のディスコが社会現象としてマスコミに取り上げられていた。しかし、同時期には、小規模のスペースで細分化されたジャンルの音楽を楽しむクラブ・カルチャーが浸透し始めていた。ハウス、レゲエ、テクノ、R&Bなど各々の好みに応じたジャンルを楽しむというスタイルが主流になったのだ。ジュリアナ東京の命は儚く3年後の1994年に閉店。これをきっかけにディスコは死語となりつつあった。

ここから30年。ディスコはすでに過去の産物になってしまったのか? と言えば、そんなことはなく、当時通い詰めていた人々の心の奥底で眠る当時の情景は決して色褪せていない。

BACK TO 80’S的なディスコイベントは、ここ近年頻繁に開催され大きな盛り上がりを見せている。そのメインとなる客層は40代後半から50代… つまり70年代の『サタデー・ナイト・フィーバー』の頃の盛り上がりでも、70年代の終わりから80年代初頭にかけてのサーファーブームでもなく、彼らが思いを馳せる”あの日、あの場所”とは、1984年を前後した、新宿のディスコビル “東亜会館” だった。

BIBA、グリース、B&B、G.Bラビッツといった4つのディスコが集結したこのビルは1984年から85年の風営法改正まで、ある種異様な熱狂を見せていた。ここには長きに渡りマスコミでも語られることがなかった高校生主体のディスコムーブメントが存在していた。

究極のサービス業、ディスコの敷居を低くしてくれたDJの功績

フリーフード、フリードリンク、入場料はほとんどの店で男性が2,000円で女性が1,000円。繁華街では、黒服と言われたディスコのスタッフが街行く女性にタダ券を配りまくっていた。フロアでは、このシーンでしか聴くことのできない “ハイエナジー” と呼ばれるヨーロッパ生まれの哀愁と高揚感を極限まで詰め込んだスペーシーなサウンドでフロアは興奮の坩堝となる。また、スローナンバーがかかるチークタイムではナンパに勤しみ、ほとんどの店でDJブースの脇に設置してあったリクエストカードにお互いの電話番号を書いて交換するのも良き思い出だ…。

当時、東亜会館の中で、唯一サーファーディスコの矜持を持ち、他の3店とは一線を画していたB&BでDJを務め、現在に至るキャリアの礎とするDJ KOO氏の言葉を借りていうならば、「繋ぎの六本木、しゃべりの新宿」というようにディスコDJのしゃべりは格別の吸引力があり、フロアに鳴り響く洋楽ナンバーとの親和性が非常に高かったと思う。

「今日は〇〇ちゃんの誕生日でーす! ハッピィバースデー!」だとか、「リクエストカードいただきました…」など、ディスコDJのしゃべりというのは、無理に横文字を使うわけでなく、今で言うパーティピープル的な軽薄なイメージとも捉えられるが、曲間に入る独特のイントネーションが当時高校生だった自分にはめちゃめちゃカッコよく感じた。さらに、このしゃべりがあったからこそ、高校生の自分たちにとって敷居高だったディスコカルチャーのど真ん中に身を置くことができた。

そう。当時のDJは究極のサービス業でもあり、身近な音楽の伝道師であり、ミラボール煌めく夢の空間の中で圧倒的なスターだった。

熱狂がピークに達する寸前に多用された邦楽ナンバー

そんなしゃべりを入れながら、ディスコでしか聴くことのできないハイエナジーナンバーに織り交ぜ、当時だったらマドンナやシンディ・ローパー、ワム! やヴァン・ヘイレンなどのTOP40ナンバーが織り交ぜられ、フロアの熱狂のピークはどんどんどんどん上がっていく。そして、熱狂がピークに達する寸前に使われることが多かったのが、邦楽ナンバーだった。

普段テレビから流れる誰もが知ってるヒット曲―― 田原俊彦「抱きしめてTONGHT」やチェッカーズ「涙のリクエスト」、吉川晃司の「モニカ」、少年隊の「仮面舞踏会」…その中でも圧倒的な盛り上がりを見せていたのが、アン・ルイスの「六本木心中」だった。あのハードロックテイストのギターのイントロが鳴り響いた瞬間、フロアに人が殺到する様子は、昭和ディスコブームの熱狂を体現していた。

このシングルのリリースは、1984年の10月5日。この年の秋には新宿、渋谷のディスコで超絶的な盛り上がりを見せていた。つまり、ディスコから火が付き国民的ロングヒットに至ったのではないかと想像できる。高校生主体のカルチャーが生んだ80年代を代表するヒット曲だ。 アン・ルイスは「六本木心中」に続き、翌々年の1986年にリリースした「あゝ無情」もディスコで圧倒的な支持を得る。遡って考えてみれば、1979年にリリースした山下達郎プロデュース作品「恋のブギ・ウギ・トレイン」も当時のシーンで大人気だったと聞くから、アン・ルイスこそが邦楽シーンの中で圧倒的なディスコクイーンだと断言できる。

荻野目洋子、石井明美、長山洋子、Wink… ディスコからメインストリームへ!

「六本木心中」と時を同じくしてディスコのフロアに鳴り響いていたのが荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」であったが、この曲のオリジナルも東亜会館のキラーチューンであったハイエナジーナンバー、アンジー・ゴールドの「EAT YOU UP」だった。この曲もまた新宿のディスコシーンを発端とし、お茶の間に響き渡った名曲だ。夜のカルチャーから発信されたものがメインストリームに浮上し、大きな影響力を持つようになるとはよく言われるが、その主役が高校生たちであったことは特筆すべきである。

「ダンシング・ヒーロー」のヒットに続き、石井明美「CHA-CHA-CHA」、長山洋子「ヴィーナス」など、ディスコでキラーチューンとなった楽曲が軒並みヒットしていくが、その終焉はWinkが船山基紀のユーロビートアレンジでヒットを連発した90年だと思う。世の中的にはユーロビートのピークだったように思われるが、高校生を主体としたディスコカルチャーはすでに夢の跡となっていた。

あの頃のミラーボール煌めく元のハイエナジーナンバーの高揚感は得難いものであったが、それと同様、邦楽ナンバーが鳴り響いた瞬間にフロアで踊るすべての人が共有した熱狂のピークは40年近く経った今でも鮮やかな色合いのまま心に残っている。

カタリベ: 本田隆

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