ウクライナを脱出したイタリア人ビジネスマン「ロシアの顧客に戦争を支持している人はいない」 キーウへの空爆音で目覚めた「一生忘れない」あの朝

2月24日、ウクライナ・キーウにある国防省施設から立ち上る黒煙(ロイター=共同)

 緊張が高まっているとの報道が相次いでいた2月に入っても、ロシアから武力侵攻を受けるとは思いもよらず、ウクライナに滞在を続けた外国人がいた。仕事でキーウ(キエフ)に出張していたイタリア人男性のアンドレア・ゾンカさん(42)もその一人。帰国は苦難の道のりになった。帰宅後に、開戦前後の現地の混乱を語ってくれた。(共同通信=津村一史、聞き手ダビデ・コメット)

 ▽プーチン大統領のモノマネ

 私はイタリアのインテリアデザイン会社に勤めています。大学時代にロシアに留学しロシア語を覚えました。2月14日、侵攻が始まる10日前にウクライナの首都キーウに入りました。ロシアの侵攻はないだろうと考えていました。ましてやウクライナ全土や特にキーウに攻撃があるとは夢にも思わなかったのです。もしあるとしても(親ロ派が一部を実効支配する東部の)ドンバス地域だろうと予想していました。現地で多くの人と話しましたが、誰ひとり、ロシアが侵攻してくるとは思っていませんでした。

アンドレア・ゾンカさん(本人提供)

 ウクライナには年に3、4回行きます。8年前の政変の時にもウクライナにいました。2013年11月下旬からロシア寄りのヤヌコビッチ政権(当時)に反対する運動が盛り上がった時も、14年2月の多数の死傷者が出た時もキーウにいました。ロシアにもよく出張するので、両国に多くの友人がいます。

 侵攻の3日前、2月21日に東部のハリコフに移動しました。ロシアとの国境から30キロしか離れておらず、ロシア語が話され、ロシアのテレビが放送され、文化的にもロシアに非常に近いところです。ハリコフで外食中、取引先はドンバス地域で、親ロシア派が実効支配する「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立承認を宣言するプーチン大統領の物まねをしたり、私に「こんな時に出張とは勇気があるね」と冗談ぽく言ったりしていました。ロシアにそれだけ近い所でさえ、重苦しい雰囲気は全くなかったのです。私は23日夕方にキーウに戻りました。

 ▽乗れなかったバス

 夜明け前、2月24日午前5時ごろだったと思います。空爆の音で目が覚めました。この経験は一生忘れないでしょう。爆発音が確かに聞こえ、最初はキーウ近郊の民間空港が攻撃されたのかと思いました。後に軍用空港だったことが分かりました。爆発音ははっきりと空港の方角から聞こえました。最初は原発やガスの事故ではないかとも思いました。数秒後にまた爆発音が聞こえました。

 すぐにキーウと空港を結ぶ幹線道路に数え切れない車の渋滞ができたことが分かりました。1人だったこともあり、できるだけ冷静さを保とうと努力しながら荷物をまとめました。パソコンを開き、(西部)リビウ行きの列車を探そうとしましたが取れません。もう切符など必要なくなっていることを、その時の私は知りませんでした。

 バスの切符は取れました。かばんを持って、出張用に借りていたアパートを出て地下鉄に乗りました。しかし目的の駅に到着する前に列車は止まり、降りるように言われました。渋滞の中、指定のバス乗り場まで5キロ歩きました。ところがバスはおらず、電話で問い合わせると、乗り場はそこから10キロ離れた所に変更されていたことが分かりました。満員の路線バスに乗り、再び地下鉄に乗った後、3キロほど歩きましたが、出発時間に間に合わないと気づきアパートに戻りました。

 ▽生活音が消えた

 それから5日間キーウにとどまりました。外出が困難になってきて、避難するほうが難しくなっていたのです。列車には基本、女性や子供しか乗れません。徐々に夜間の外出禁止も定められていき、列車に乗れなかった場合は駅で夜を明かさなければなりません。

ゾンカさんがキーウのスーパーでやっと買ったパンと水=2月26日(共同)

 2月27日には一日中、外出禁止となりました。アパートに残ったほうが安全だと思いましたが、暖房はだんだん弱くなり寒くなってきました。スーパーに行くと肉やパスタ、米、缶詰は売り切れていました。500ミリリットルの値段の高い水と、パンが少しあるだけでした。スーパーは半分が空となっていて、生活必需品も見つかりませんでした。高級食料品のゴルゴンゾーラチーズやサーモンなんかが辛うじて残っていました。ほとんどの人が荷物も持たず、着の身着のまま西に向かったと聞きました。目的地も決めないまま出発したのです。

 戦争が始まる前、5階建てのアパートの上の階に住んでいた家族は子供が走り回り、親が叱り、家庭的な音で満ちていました。なのにもうシーンとして人の気配がしなくなった。ほんの小さな物音がすると、自分は1人じゃないのだと安堵しました。夜には爆発音が鳴り響くのが聞こえ、窓ガラスが震えて寝られませんでした。インターネットが使えたので、妻や友人と連絡を取ることはできました。アパートはキーウ中心部の独立広場から2キロで、もしクーデターがあれば巻き込まれることになるのではないかと心配でした。

 ▽絶望を越えて

 2月28日に停戦交渉が始まるとの情報が流れて、その日にキーウを出る決意をしました。脱出するなら今だと思いました。それにもう、これから事態は悪化する方向にしか進まないだろうとも考えました。

 その日の外出禁止は午後7時からでした。午後2時にタクシーに乗り、6キロほど離れた駅に向かいました。街はがらがらで人影はない。こんなキーウは見たことがありませんでした。

ゾンカさんがウクライナ西部リビウから乗ったバスの前方にはポーランドを目指す車の長い列ができていた=3月2日(共同)

 駅では列車の発着時間も何も関係なく、どこから来てどこに向かう列車なのか直感で探さなければなりませんでした。(ポーランドの)ワルシャワ行きの列車があるといううわさがあり、21番ホームだというアナウンスが流れ、群衆が乗り場に殺到しました。

 しかし、そこにいた警官が「ここではない」と話し、みんな今度は一斉に22番ホームに押し寄せ、私も乗車しましたが、結局違いました。赤ちゃんを連れている人もいたし、犬や猫などのペットもいました。ワルシャワ行きは既に出発した後でした。

 その時、駅でごう音が響きました。警報が鳴り、電気が消えました。ミサイルが二つ、近くに撃ち込まれたという話でした。戦争映画のワンシーンのようでしたが、私はそこにいる人々が皆、現実だと受け入れて行動しているのが驚きでした。

ウクライナ西部の国境付近で写真を撮るゾンカさん(右端)。バスの長い列ができていた=3月2日(共同)

 午後10時半にリビウ行きの列車がありましたが満員で乗れませんでした。女性や子供が優先され、私が外国人であることなんて誰も気にしません。午後11時に別の列車に駆けつけて、車掌にロシア語で「立ったままでいいから」と頼み込み、ようやく乗れました。

 空爆の標的にならないよう車内の電気は消され、カーテンも引かれ、ゆっくりとリビウに向かいました。通常は5時間半ですが、12時間かかり、翌3月1日の午前11時に到着しました。窮屈な姿勢で、疲れ果てていましたが眠れませんでした。私がロシア語が話せなくて土地勘もなかったら、絶望していたと思います。2日にリビウからチェコに向かうバスに乗れましたが、ウクライナを出国する手続きの順番待ちだけで12時間かかりました。自宅に戻れたのは4日でした。

 ▽ロシア人も支持せず

 今もウクライナとロシアの知人と毎日連絡を取り合っています。キーウにいたときからロシア人の取引先から電話がかかってきて、イタリアではどのように報じられているか尋ねられました。他のロシア人も「こちらのテレビが報道しているのは事実ではないだろうから、どのような状況か知りたい」と言っていました。彼らはロシア軍が行っているのは軍事施設を対象とした作戦だと思い込んでいました。

 私のロシアの顧客で戦争を支持している人はいません。ビジネス界の人々は皆、どのように仕事を継続すればいいか悩まされています。

 (制裁で)輸送の問題が出てきましたし、送金の問題もあります。経済制裁を受けてロシアのルーブルは急落しています。私は自分の命を守るため自宅に戻ってきましたが、今後は自分の仕事をどう守っていくか考えなければなりません。

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