桜の名所で語り継がれる権八、小紫の悲恋 さらに起こったもう一つの悲劇・かむろの物語 現地を行く

都内の桜の名所で、今も語り次がれる権八、小紫の悲恋、そしてもう一つの悲劇・かむろの物語…。

東急東横線の中目黒駅からJR五反田方面に向かって流れる目黒川は桜の名所だ。その目黒川から東急目黒線沿いにもかむろ坂と呼ばれる鑑賞スポットがある。時期ともなればライトアップされ、約1キロ続くだらだら坂が人で賑(にぎ)わい、ときとして交通渋滞さえ引き起こす。

この坂がなぜ、かむろ坂と呼ばれるようになったのか。そこには、歌舞伎や講談、浄瑠璃、映画などで知られる権八、小紫の物語が大きく関わっている。権八は江戸時代前期に実在した平井権八という実在した武士で、歌舞伎の世界などでは白井権八という名前で知られている。歌舞伎の演目『浮世柄比翼稲妻』で、侠客・幡随院長兵衛が、権八との出合いの際に発した「お若えの、お待ちなせやし」というせりふは有名だ。

この権八は元々鳥取藩士だったが、数え18歳だった寛文十二(1672)年に父の同僚と斬殺して江戸へ逃亡。その後、江戸で新吉原の遊女・小紫に熱を上げるようになった。恋仲にはなったものの遊女と会うには費用がかさむ。そのため、金に困った権八は、いつしかつじ斬り、今でいう強盗殺人で金品を稼ぐようになった。伝わるところでは130人以上も手にかけたという。だが、結局は捕縛され延宝七(1679)年、品川の鈴ヶ森刑場で処刑された。

この刑死の報を受けた小紫は世をはかなんだ。本当の恋だったということだ。小紫は店を抜け出し、権八が葬られている寺の墓前で自らの命を絶ったという。今でいう後追い心中である。

現世では添い遂げられなかった2人のため建てられたのが、今は目黒不動前にある比翼塚である。当初あった寺が、その後廃寺となったため各地を転々とし、1962(昭和三十七)年に現在地の場所に設置された。

わが家の菩提(ぼだい)寺である成就院蛸薬師がこの近辺にあり、何度もこの前を通ったことがある。今回、改めて訪れたが、来世で権八、小紫は再び巡り合うことができたのだろうか―と思った。

この追い心中事件が、新たな悲劇を生んだ。店に戻らない小紫を心配した下働きの女の子がいた。おかっぱ頭のような髪型で、かむろと呼ばれていた。探しに出たかむろは目黒へ出向き、その死を知ったという。泣きながら帰り道すがら、今度はかむろ本人が悲劇に見舞われる。突然、地元の荒くれ者に襲われてしまう。結局、逃げ切れないと悟ったかむろは、付近の池に身を投げ自ら命を絶った。この様子をみていた付近の村人が哀れに思い「かむろ塚」を建てたという。それがかむろ坂の由来となっている。

桜吹雪が舞うこの地に、今も二つの悲劇を時代と同じ風が吹いているのだろうか。かむろ坂を上りながら、そんな気持ちにフッとなった。

(デイリースポーツ・今野 良彦)

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