「開門問題」単純な対立構造ではない 有明海の再生、地域発展が切なる願い

諫干堤防閉め切り25年

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諫早湾(手前)と調整池を閉め切る潮受け堤防。中央は北部排水門。調整池の向こうに中央干拓地、右に本明川河口が見える(小型無人機ドローンで撮影)

 長崎県島原市有明町の漁業、宇土敏彦(60)は港で漁具を繕いながら5日前の出来事を思い出していた。3月25日夕、漁師仲間からの電話。宇土は耳を疑った。
 この日、国営諫早湾干拓事業潮受け堤防排水門の開門を命じた2010年の確定判決を巡り、開門を強制しないよう国が漁業者に求めた請求異議訴訟の差し戻し審判決が福岡高裁で言い渡された。宇土は開門命令を勝ち取った確定判決原告の一人だ。
 結果は国の勝訴だった。同高裁は「(1997年の)堤防閉め切り前と比べ、諫早湾や近傍部で魚類の漁獲量が回復しているとは言えない」としながらも、「(魚類以外のエビ類などを含めると)共同漁業権の対象となる主な魚種全体の漁獲量は増加傾向にある」と判断。その上で「魚類の減少の原因の全て、または大半が閉め切りによるものと言えるかは疑義がある」とも指摘した。
 「何な、そら」。電話を片手に言葉を失った。裁判官は現場を見て判断したのか、開門確定判決に従わず時間稼ぎしてきた国の対応は許されるのか-。憤りが込み上げてきた。
 収入は閉め切り前の3割もない。長男(27)には「後を継いでくれ」とはとても言い出せなかった。閉め切りから四半世紀。「海が変わり、魚が減り、地域の元気が失われていった25年だった」。やるせない表情で海を見詰めた。「国は(開門確定判決の)原告が年取って死ぬのを待っているようにしか思えん」

■分断状態
 その2日後。対岸の諫早市小長井町では、大潮に合わせたアサリ掘りが繰り広げられていた。中国産の稚貝を3~4カ月蓄養し、原産地を表示した上で「小長井育ち」として出荷する。「小長井育ちのアサリは実入りも味もいい。よそより2、3割高く売れる」。諫早湾漁協理事の野田秀男(67)が教えてくれた。

バレイショの芽を伸ばすため、シートに穴を開けていく町田さん=諫早市、中央干拓地

 小長井に本所を置き、潮受け堤防に最も近い同漁協の水揚げの二本柱が蓄養アサリと養殖カキだ。特に閉め切り後の漁獲落ち込みの中、緩やかになった潮流などに目を付けて生産を始め、ブランド化に成功したカキは小長井地区の水揚げ高の5割超を占める。タイラギや魚が取れなくなり、家族を養うため陸に上がっていた野田も本格的に海に戻った。
 組合員には開門派も非開門派もいる。「25年がたち、自然がこの環境で落ち着いた。個人的には『非開門』」と言うある幹部は「諫干事業で組合員の人間関係がおかしくなった」とこぼす。
 海への影響を懸念する野田は元々、諫干事業に反対だった。今は開門問題についてどう思う?-。その問い掛けに、言葉を選ぶようにして答えた。「今、何とか生活している。開門しても海が良くなるのか分からないから判断しかねる」。そして、語気を強めた。「(閉め切り後の漁業者の)収入は、まだ厳しい。水揚げ高を上げて、後継者が育つ環境をどう整えていくか。それは私たちの役目だが、(開門派、非開門派の)分断状態をつくった国は責任持って海の再生に取り組んでほしい」

■メリット
 小鳥のさえずりが聞こえる。諫早市の中央干拓地。「(約5ヘクタールの区画内には)石垣も溝もない。作業効率が分かるでしょう」。町田浩徳(59)が広大な農地を見渡した。
 干拓地で営農が始まった2008年、雲仙市から規模を拡大する形で入植した“1期生”。中央干拓地では家族を含む約10人で16ヘクタールを耕作し、ブロッコリーやタマネギ、バレイショなどを生産する。市内に分散する小規模農地を転々と移動しなければならない従来に比べ、入植地での耕運作業の能率は2倍以上。年間売り上げも5倍~10倍近くになった。「(雲仙の)地元では考えられないほどの面積を一日で扱える。人を雇用する場合、能率の悪さ、ロスタイムは致命的」。ここでの営農のメリットをそう強調した。
 開門には反対だ。「排水門を開けたら調整池に海水が入り、農業用水として使えなくなる。台風などで海水がしぶきになって舞い上がり、塩害で農作物は全滅してしまう。撤退するしかない」。入植以来、経営を軌道に乗せようと土づくりから懸命にやってきた。道半ばだ。仕事は厳しいが経営体質を強化し、農業の夢や希望を後継者の長男(34)に背中で示したい。「そうした姿を見せるのが親の責任」だと感じている。「開門命令を無効化する差し戻し審判決にほっとした。国は非開門での和解を早く実現してほしい」とも語った。
 農林水産省などによると、中央、小江の両干拓地では現在、法人、個人合わせて35経営体が営農し、平均経営規模は約17.9ヘクタール(都府県平均の約8倍)。推定農業産出額は約28億円(20年度)、約700人(19年度)が働く。
 一方、営農開始からこれまでの撤退は13経営体を数える。島原半島で有機野菜を手掛ける法人も干拓地で主にタマネギを作っていたが、数年前に退去した。
 代表の男性(78)は言う。「畑が肥沃(ひよく)なのはプラスだが、かつて干潟だった『ガタ土』。火山灰が混じった(島原半島の)土と比べると粒子が細かく、水はけが悪い。(地元で培ってきた)ノウハウがそのまま使えず、土づくりに苦労した。努力したが、いい結果を出すのは難しかった」。島原半島でも基盤整備が進み、近場で優良農地を確保できるようになったことも大きい。
 「それから、もう一つ理由がある」。男性が付け加えた。「開門したら農業ができない。開門問題に振り回されず、安心できる場所で静かに仕事をしたかった」と。「干拓地は確かに作業効率はいいが、メリットばかりの農地じゃなかった」。そう振り返った。

■生命守る
 中央干拓地に近い諫早市川内町。低地にあり、住民は過去、繰り返される冠水被害や高潮による塩害に悩まされ続けてきた。この地に生まれ育った平野政春(78)には、脳裏に焼き付いた記憶がある。市内中心部を流れる本明川などが氾濫し、死者・行方不明者630人を出した1957年7月の諫早大水害だ。

旧堤防に立ち、「潮受け堤防ができるまで、大潮と台風が重なれば巻き上げられた海水が入ってきた」と話す平野さん。旧堤防の左側はかつて海だった中央干拓地=諫早市川内町

 13歳だったあの日、平屋だった自宅には天井近くまで水が押し寄せ、家族で隣家2階に避難した。夜、雷鳴とどろく暗闇の中を、人々が「助けてくださーい」と悲鳴を上げながら濁流に流されていった。どうすることもできなかった。
 平野はかつて、諫早湾奥部でノリを養殖する漁師だった。そこに、農地造成と後背地の高潮・洪水対策などを目的とした諫干事業計画が決まる。生活の糧を奪われることに反対だったが、住民の命には代えられない。断腸の思いで受け入れた。
 25年の節目に思う。「昔は台風などで一睡もできない夜が年に2、3回はあったが、潮受け堤防や調整池ができ、強制排水ポンプも整備され、冠水の心配はなくなった。この事業は、ここに暮らす人々の生命や財産を守るために必要だった」。諫干事業に翻弄(ほんろう)された面もある半生だったが、今はそう納得している。

■異口同音
 全長約7キロの潮受け堤防へと車を走らせた。巨大公共事業の在り方が問われた諫干事業の象徴だ。非開門の漁業者もいれば、開門を求めて裁判を続けている営農者もおり、開門問題は単純に漁業者と営農者の対立の構図で語ることはできない。防災や営農などへの影響についても、開門派からは『諫干事業の防災効果が過大評価されている』『想定しうる被害を最小限に抑えた上で開門することは可能』との指摘も聞かれる。ただ、開門、非開門派双方の主張は違えども、異口同音に耳にしたのは漁場環境が悪化した有明海の再生、そして地域発展への切なる願いだった。諫早市内の高齢男性は、開門問題への一般市民の関心が低いとして、こう語った。「(事態打開への出口が見えない)現状がいいはずがない。多くの人が関心を持ち、自分のこととして考えることが解決につながる」。堤防の上に立ち、その言葉を反すうした。

諫早湾干拓事業を巡る経緯