【中原中也 詩の栞】 No.37 「聞こえぬ悲鳴」(『改造』昭和十二年春季号より)

悲しい 夜更が 訪れて
菫(すみれ)の 花が 腐れる 時に
神様 僕は 何を想出(おもひだ)したらよいんでしよ?

痩せた 大きな 露西亜(ロシア)の婦(をんな)?
彼女の 手ですか? それとも横顔?
それとも ぼやけた フイルム ですか?
それとも前世紀の 海の夜明け?

あゝ 悲しい! 悲しい……
神様 あんまり これでは 悲しい
疲れ 疲れた 僕の心に……
いつたい 何が 想ひ出せましよ?

悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)――
  噛(か)んでも 噛んでも 歯跡(はあと)もつかぬ
  それで いつまで 噛んではゐたら
  しらじらじらと 夜は明けた

     ―― 一九三五、四 ――

     

【ひとことコラム】思い出は自分が生きてきた証となるもの。それを見失った悲しみが声にならない心の叫びを発しています。〈露西亜〉や〈前世紀〉などは詩人が国境や時代を超えたものを追い求めてきたからこそ浮かぶイメージですが、残骸のように断片的で悲しみは深まるばかりのようです。

中原中也記念館館長 中原 豊

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