あの日の大川小5年生が固めた決意「伝えたい、亡き友の分も」 同級生と被災体験の伝承

只野哲也さん(右)と大川小校舎を訪れた今野憲斗さん=2月、宮城県石巻市

 「友達の分も生きて、一緒に過ごした学校のことを伝えていきたい」。東日本大震災で在校生108人のうち70人が死亡、4人がいまだ行方不明となっている宮城県石巻市立大川小の卒業生、今野憲斗さん(22)の決意は、震災11年を前に固まった。「被災体験の伝承に取り組む」と。同級生の只野哲也さん(22)と力を合わせ、1人でも多くの命を災害から守りたい。あの日の5年生はこの春、保育士になった。(共同通信=加我晋二)

 ▽自宅で津波に被災。翌朝、船で救助される

 2011年3月11日午後2時46分、教室での帰りの会の最中に突然、大きな揺れが襲った。校庭に避難した後、迎えに来た母親の車から目にした「干上がっているような」北上川。これまで見たことのない光景。「すごく大きな津波が来るのでは」―。幼心に思った。

2月、大川小を訪れた今野憲斗さん

 数分後、学校から約2キロの自宅に着くと、祖母が2階から「津波が来たから早く上がれ!」と叫んだ。窓から見えた真っ黒な濁流。津波が遡上した北上川は普段とは全く違う様相となって堤防を乗り越え、一気に押し寄せた。死を覚悟したが、2階床下で勢いが止まる。家族は全員助かった。

 「みんな無事かな…」。寄せては引く津波の音に一晩中おびえ続けた。真っ暗闇の中、「ピンポン、ピンポン」とずっと鳴り続けていた玄関のインターホンの音が強く印象に残っている。

 翌朝、船で救助され朝日を浴びた瞬間に「生き延びた」と実感した。が、同時にあまりに変わり果てた周囲の様子に「夢ではなかったんだ」と現実を思い知った。

津波で壊滅的な被害を受けた大川小=2011年3月23日、宮城県石巻市で共同通信社ヘリから

 数日後、母親と向かった大川小で、毛布にくるまれた遺体や、泥だらけのランドセルが目に飛び込んできた。校舎裏山への避難がかなわず、15人いた同級生の6人が命を落とした。何も考えられず、ただただ絶望し、涙すら出なかった。

 誰が無事で、誰が亡くなったのかすら分からない。避難所で幼なじみの只野さんに遭遇し、泣きながら抱きついた。津波にのまれて助かるも、目をけがした只野さんの痛々しい姿に「大変な思いをしたんだなと思った。でも、生きているのが確認できてうれしかった」と当時を振り返る。

 翌月、市内の別の場所への引っ越しに伴い転校。かつての友人と顔を合わせる機会は減った。本当は大川小に残りたかった。でも、両親に「転校したくない」と言える雰囲気ではなかった。

 夜、布団に入ると気分が沈み、一人泣いた。「もう昔の大川小には戻れないんだ」。力が入らず、生きているのが嫌になったことや、登校できなくなった日もあった。それでも「遊ぼうよ」と気さくに誘ってくれる新たな友人の存在が支えになった。

大川小学校(上)へ捜索に向かう自衛隊員=2011年4月、宮城県石巻市

 ▽傍観することしかできなかった

 只野さんが、震災直後からメディアに震災時の状況を伝えたり、校舎保存に向けて地域住民の前で意見表明したりと、積極的に活動していることは知っていた。葛藤はあったが、あの日同じ場所にいた自分は傍観することしかできなかった。

 引っ越した後も只野さんとは同じ柔道教室に通い、時々顔を合わせていた。ただ、震災の話はしなかった。「聞きづらかった。震災は抜きにして、ただ友達として接したかった」(今野さん)

大川小を訪れた人たちに、当時の思い出などを語る只野哲也さん=2018年3月、宮城県石巻市

 只野さんは只野さんで「『なんでそんなことしてるの』と言われたら続けられなくなるかもしれない。見ず知らずの人に『目立ちたがり屋』と言われても当時は気にならなかったけれど、友達からだと違う。怖くて口にできなかった」と打ち明けた。

 毎年3月11日、今野さんの足は大川小に向かった。5年生の教室には自然と当時の同級生が集まった。「最近元気?」。近況報告や思い出話に花が咲いた。かつての友達と再会できる楽しみな日でもあった。

 ▽被災体験を語ると、手が震えた

 2021年、震災から10年以上が経過。大学の授業が一段落した時、ふと考えた。「今の自分なら、何かできるのではないか」。只野さんが、教訓伝承や校舎保存の在り方を考える任意団体「Team大川未来を拓くネットワーク」を設立すると耳にし、名乗りを上げた。代表の只野さんを補佐する副代表に就いた。

2月、大川小を訪れた今野憲斗さん

 只野さんは「これまで大変な思いもしたけど、自分が続けてきたから憲斗が一緒に活動できている。率直にうれしかった」と振り返る。

 今年2月の団体発足式。初めて大勢の人前で自身の思いを語る機会を得た。「津波にのみ込まれるのではないかと、小学生ながら死を感じました」と被災体験を語ると、手が震えた。「この11年、哲也さんを隣で見ていただけだった。当時は心身ともに幼かった。でも、大学で多くを学んで成長し、自分で考えて行動できるようになった」と思いを述べた。

 ただ、感じたのは想像以上の重圧だった。「テツ(只野さん)はあの頃から1人で耐えていたんだな」。協力できなかった過去を悔やみ、これからは只野さんを支えていくと誓った。話し終えると、何だかすっきりした気分になった。

只野哲也さん(右)と大川小校舎を訪れ、思い出を話す今野憲斗さん=2月、宮城県石巻市

 2月末、今は震災遺構となった大川小を2人で歩いた。「かくれんぼした時、必ずここに隠れる人いたよね」「あそこでカエル、捕まえたよな」。懐かしい記憶がどんどんあふれ、笑い合った。震災の悲しい経験を上回るたくさんの思い出が、校舎にはある。運動神経が良くてやんちゃだった子、創造性に富んで、ノートを使ってゲームを作っていた子…。犠牲になった友人のことは、今もよく思い出す。

 伝承活動と並行して、4月から社会人になった。「二度とあの惨状が起きないよう伝えていく。かつての大川小の日常も知ってほしい」。幼い子どもを守れる、頼りがいのある保育士が目標だ。

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