新庄剛志からのメールに「『は?』としか…」 専属広報が語る“引退宣言”の真実

日本ハム・新庄剛志監督【写真:荒川祐史】

2006年、新庄剛志の専属広報を務めた荒井修光さんが背負った“時限爆弾”

16年前の2006年4月18日、日本ハムの新庄剛志監督は誰もやったことがない方法で突然、現役引退を表明した。オリックス戦(東京ドーム)の2回、左翼へ本塁打を放つと、その談話として「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と発表したのだ。スマートフォンがまだない世の中、携帯電話の文字速報やラジオで情報を知ったスタンドもざわついた。期せずして騒動の中心にいることになったのが、当時専属広報を務めていた荒井修光さんだ。引退宣言の舞台裏、そして新庄と駆け抜けた3年間を振り返ってもらった。

新庄が本塁打を打った際の「〇〇打法」という命名は、日本ハム入りした2004年途中から定着していた。本塁打を打つと荒井さんは、さまざまな方法で「打法」を聞き取った。守備に就く新庄が言い残して行くこともあれば、ベンチで話しながら生み出されることもあった。「どういう意味ですか? って、僕がわからないものもたくさんありましたからね。『カウンタック打法』とか」と楽しそうに当時を振り返る。

一方で、ふとした瞬間に新庄がひらめき、こう言うこともあったという。「ノブ、これメモしておいてね」。大騒動となった引退宣言も、そのパターンだった。

「2006年、キャンプが終わって、オープン戦をこなしながら北海道へ戻る間だったと思います。突然メールで『オレ、何年野球をやっていたっけ?』って聞かれたんです。すぐ調べて返信したら、あの打法名が返ってきて『メモしておいて』と。あまりに突然で『は?』としか言いようがなかったですね」

新庄に意味を聞いた。「引退しようと思っているけど、誰にも言うな」。そしてシーズンが始まったころ、もう一度「本塁打を打ったら発表するから、頼む」と言われた。思い当たる節が、ないわけではなかった。新庄の日本ハム入りからずっと専属広報を務めてきたが、迎えた3回目のキャンプは「何かが違った」のだという。球場からホテルへ向かう車の中で、新庄にも「今年のキャンプ、何かが違うんですよ」と問いかけたことがある。「そう? そっか」と、そっけない答えが返ってきた。

2006年の新庄は、開幕から調子が上がらなかった。4月16日のソフトバンク戦を終え、打率.176。ただ8回の第4打席で、左翼フェンスを直撃する二塁打を放った。「ヤバい!と思ったら、フェンスの一番上に当たって二塁打になったんです。もう正直『打つなよ、打つなよ』と思っていました」。誰にも言えない「引退宣言」を抱えた荒井さんの胸は、締め付けられるようだった。

新庄剛志監督の専属広報だった荒井修光氏【写真:羽鳥慶太】

引退宣言前夜、荒井さんが見た“予知夢”に新庄は「諦めろ」

そんな思いがあふれたのだろう。東京へ移動した荒井さんは夢を見た。新庄がホームランを打ってしまう夢を。とっさに「新庄さんにメールしようかと思ったんですけど、言ったら本当になってしまう気がして……」と思いとどまった。次の日、試合前に部屋に迎えに行った際、勇気を出して口にした。「実は昨日の夜、夢を見ました……」。新庄からの言葉は「諦めろ。今日打つから。ヒーローインタビューと引退会見、頼むぞ」だった。

試合前のティー打撃で、新庄にボールを上げるのも荒井さんの日課だった。「そうしたら、めちゃめちゃイイ感じなんです」。もう一度「諦めろ」と言われて試合に入り、2回の初打席。セラフィニのボールを捉えると、打球は左翼フェンスを超えた。

恐れていたことが、ついに現実になってしまった。新庄はダイヤモンドを1周して生還、そのままベンチに向かうところをこの日は一塁方向へ歩み出し、ヘルメットを取ってスタンドへ深々と一礼した。ファンも報道陣も「あれ?どうしたんだろう」と疑問を持った。ベンチに戻った新庄さんは荒井さんにアイコンタクトを送った。「行ってくれ、ってことだったんですけど……」。当時、報道陣には「打法名」が携帯メールへ発信されるシステム。荒井さんは送信ボタンを押せなかった。「すごいことが起きちゃうのが、分かっているわけですよ」。さすがに、自分の一存だけではできないと、高田繁GM(当時)らが試合を見ている部屋をノックした。

「こういうメールを出そうとしています」と告げると、高田GMからは「一旦待ってくれ」と指示があった。移転後、最大の功労者が現役を退くというのだ。球団側にもそれなりの準備が必要だった。上層部への報告等、全ての段階を踏んでメールが発信されたのは「40~50分たってからじゃないですかね」。紙に印刷した打法を放送リポーターに渡すと「どういうこと?」と驚きの反応が続き「そういうことです。もうこれ以降、打法が出ることはありません」としか返せなかった。携帯電話は鳴りっぱなし。叩き折ってやりたいという衝動に駆られたという。

新庄は試合後、ドーム内で急遽行われた引退会見で「開幕戦で球場が満員になったこと」を引退決断の理由に挙げた。ただ3年間を共に“戦ってきた”荒井さんは、決意に至る動機はほかにもあったのではないかという。「ハッキリ言われたわけではないんです。でも悠々捕れていた打球を、ジャンプしないと取れなくなったり、余裕で刺せていた走者を、ギリギリでしか刺せなくなったという話は日常的にしていました。レベルの高い選手ならではの感じ方があったと思う。僕らからすればまだまだできると思ったんですが……」。

そして、ドラマはこの日だけでは終わらなかった。この引退宣言は前年5位と低迷していたチームを動かす“引き金”だったのだ。夏場、驚異的な快進撃を見せた日本ハムは、そのまま44年ぶりの日本一まで駆け抜けることになる。(羽鳥慶太 / Keita Hatori)

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