米軍普天間飛行場の移設問題はもう26年、なぜこんなにこじれたのか 歴代政権のキーパーソンを訪ね歩いて分かったこと

米軍普天間飛行場の全面返還合意を共同記者会見で発表する橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使=1996年4月、首相官邸

 1996年4月12日、首相官邸で駐日米大使モンデールと共に記者会見に臨んだ首相橋本龍太郎は、満面の笑みを浮かべてこう述べた。「沖縄の皆さんの期待に可能な限り応えた」「最良の選択ができた」。日米両政府による米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)返還合意は、文字通りのサプライズ発表だった。

 しかし、あれから約26年。返還はいまだに実現せず、当時の高揚感との落差は大きい。その後の政権は同県名護市辺野古の代替施設建設を巡り、誤算と迷走を重ねた。米国の意向を優先するあまり、反対を貫く沖縄との溝は深まる一方だ。

 沖縄にとって今年は日本復帰50年の節目に当たる。つまり、復帰後の半分以上の年月を普天間移設問題に翻弄されてきたことになる。政府と沖縄の関係はなぜここまでこじれてしまったのか。次の50年に向け、局面打開の方策はないのか。

 5月15日の「復帰の日」を前に、普天間返還合意当時の橋本政権のほか、移設問題のターニングポイントとなった小泉政権、鳩山政権の元幹部らを訪ね歩いた。(共同通信=高城淳)※肩書はすべて当時、敬称略。

 ▽沖縄側に受け入れを決断するようシグナルを送った橋本

 96年の歴史的な返還合意の立役者の一人は間違いなく橋本だ。当時、その橋本を首相秘書官として支えたのが江田憲司(現在は立憲民主党衆院議員)だった。橋本の思いを聞こうと国会内の江田の事務所を訪ねた。

 

元首相秘書官の江田憲司氏

 江田は「米側が『普天間を返す』と言うとは日本政府の誰もが思っていなかった。合意発表の記者会見後、橋本と抱き合って喜んだ」と裏話を明かしてくれた。

 ただし、返還は条件付き。米側から県内に代替施設を確保するようくぎを刺されていた。果たして知事大田昌秀が受け入れてくれるのか―。橋本と大田、トップ同士の交渉の行方が焦点となるのは必然だった。

 だが2人の話し合いには当初から暗雲が垂れ込めていた。対立の芽は合意発表当日の段階で既に生まれていた。

 今回の江田へのインタビューと、大田が生前に共同通信の取材で語った内容を総合すると、流れはこうだ。合意発表当日の橋本と大田による電話。大田はその内容について「首相は(県内)移設に言及しなかった」と説明した。一方、橋本のそばでやりとりを聞いていた江田は「(移設に向け)大田は全面協力を表明した。了解を得た」と強調する。

 大田は橋本との度重なる会談を経ても、最後まで首を縦に振ることはなかった。背景には何があったのだろうか。

 それは太平洋戦争末期の沖縄戦の経験だった。学徒動員され、凄惨な戦場の中で生き残った大田。移設とはいえ、県内に新たな米軍基地を建設することは認められない―。普天間返還合意をアピールしたい橋本との立場の違いは埋め難いほど深くなっていった。

 橋本や江田は、大田を軟化させようと模索を続けた。浮かんだ案が「撤去可能な海上施設案」。代替施設は恒久的なものではなく、必要性がなくなれば撤去できると説明すれば理解を得やすいとの判断だった。

 代替施設を巡る日米のやりとりに深く関わった官僚の一人に、防衛庁防衛局長秋山昌廣がいる。

元防衛庁防衛局長の秋山昌廣氏

 当時の政府内の空気を尋ねてみると、秋山は「(沖縄での)米軍の機能は落とさない。とにかく県内に代替施設を提供してもらう(という考えだった)」と解説した。秋山は、海上施設案について「大田に決断を促すシグナルでもあった」と振り返る。

 ▽「大田知事でなければ、とっくに…」

 だが結局、海上施設案は功を奏することはなかった。大田は電話で江田に反対を通告。江田は橋本に代わろうとしたが、その前に一方的に切られたという。

 大学研究者から知事に転身した大田。江田は大田について「政治的経験が少ないし、難題を調整する手腕も未知数だった」と回想する。

 橋本は大田のかたくなな態度にいら立ちを隠さなかった。「大田は決断する重圧に負けたのだろう」。江田は橋本がぽつり漏らしたのを鮮明に記憶している。

住宅地に取り囲まれた沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場=2月(共同通信社機から)

 その後、大田は3選を目指した98年の知事選で稲嶺恵一に敗れた。稲嶺は15年の使用期限の設定など条件付きで県内移設を容認する方針を打ち出していた。江田は「稲嶺が橋本の交渉相手だったら、移設問題は解決していただろう」と指摘する。

 ▽進まぬ移設、決着急いだ米国

 移設問題が次の転換点を迎えたのは小泉政権期だった。

 当時、政府は移設先を名護市辺野古沿岸域と決定していたが、現地での作業は激しい反対運動に遭い、立ち往生していた。首相小泉純一郎の下で、見直しを決断。米国と交渉をスタートさせる。

 

元首相補佐官の山崎拓氏

 首相補佐官として小泉を支えた山崎拓によると、見直しの背景には米国の意向があった。山崎は「米国は普天間移設がこれほど長引くと思っておらず、決着を急いだ」と強調する。

 協議の末、政府は2006年、米国、地元自治体との間で合意。辺野古沿岸部にV字形の滑走路を造るというのが新たな計画案だった。反対派による妨害を避けるため、既存の米軍基地の敷地を活用すると決めた。

 だが、15年の使用期限の設定など稲嶺が政府に要求していた条件は無視された。そのため、稲嶺は頭越しの決定だと反発。稲嶺の提案について山崎は「実現性に乏しかった」と釈明するが、政府と沖縄の対立はさらにエスカレートする結果となった。

 ▽「県外」の当てなく失望を招いたと悔やむ当時の民主党政権幹部

 移設問題を巡る混迷はさらに拡大していく。民主党へ政権が移った09年。「最低でも県外」を唱えた鳩山由紀夫が首相に就いた。

 

2010年5月、沖縄を再訪問した首相鳩山由紀夫。「公約を守れ!」の横断幕が掲げられた=那覇市

 鳩山発言を受けた当時の民主党の対応を知るため、党幹事長を務めた岡田克也を訪ねた。岡田はこう振り返る。「(県外移設は)生易しいことではないと分かっていた。だからこそマニフェストに書かなかった。方向性はいいが、民主党政権でできるという確信はなく、鳩山の発言に頭を抱えた」

 新たな移設先に当てがあるわけでもなく、辺野古に回帰するしかなくなった。あえなく鳩山政権は崩壊。「大きな失望を招き、申し訳なかった」と岡田は悔やんだ。「鳩山は具体案がないまま県外移設を言ってしまった。時間をかけて議論する場をつくり、2、3年を費やしてでも議論できていたら、政権は倒れなかったかもしれない」

 ▽これからも危険との隣り合わせが続く

 鳩山の退陣から約12年。辺野古移設では、埋め立て予定海域で見つかった軟弱地盤が重大問題化している。移設にはさらに多くのコストと時間がかかるのは避けられず、その行方は不透明さを増すばかりだ。04年に隣接する沖縄国際大に普天間所属のヘリコプターが墜落。16年には、オスプレイが名護市沿岸部に不時着し、大破した。住民が危険と隣り合わせの生活から「解放」されるめどは立たない。

普天間所属のヘリコプターが墜落炎上した沖縄国際大の建物=2004年8月、宜野湾市

 1996年の普天間返還合意時から四半世紀以上が経過し、東アジアの安全保障環境は激変した。辺野古移設を今、どう考えればいいのか。元政権幹部らに改めて質問をぶつけてみた。

 秋山は「沖縄が納得する代案が出てくればいいが、なかなかない。辺野古移設をやめるという選択肢はない」との見方だ。江田は、軟弱地盤を含む実情を米側に説明し、移設を見直すよう提起すべきだと主張する。「辺野古移設はもういい、という可能性はなきにしもあらずだ。とにかく提起することが大事で、そこから突破口が開けるのではないか」と説く。

 

元民主党幹事長の岡田克也氏

 岡田は「辺野古移設は不要だ、という結論に至るかどうかは分からないが、米海兵隊の役割の変化や軟弱地盤の上に造る基地のリスクなど、議論の余地はある」と語る。山崎は、ウクライナや台湾海峡の情勢を鑑みれば、この先10年は普天間移設が滞る可能性があると指摘する。

 ただ、政府と沖縄のもつれた関係を修復するのは極めて困難だ。かつては沖縄と中央をつなぐ有力政治家が間を取り持ったが、その後はパイプ役不在が指摘されて久しい。梶山静六、野中広務、山中貞則ら自民党重鎮らは沖縄に寄り添うことを忘れなかった。戦争で大きな被害を受けた沖縄に対し、少しでも埋め合わせをしなければならないとの考えからだ。

 山崎は、そうした認識が現役の政治家からは消えつつあると嘆く。「お金はやるから、基地負担は甘受しろという態度ではないか」

 普天間移設問題のほか、沖縄県民には多大な基地負担がのしかかる。復帰がかなった1972年当時の沖縄の人々が望んだ姿から程遠いのは明らかだ。日本の安全保障を考える機会が増えつつある今こそ、沖縄の基地負担の在り方について、問い直す機会とすべきではないだろうか。

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