90歳のおばあは、兵隊と一緒に「地獄の行軍」を味わった 凄惨な沖縄戦をなんとか生き延びた。でも「今もいくさ世は続いている」

自宅の窓辺に立つ安次富美代さん。空を見上げては母親とともに米軍の捕虜になった日のことを思い出すという=2021年12月、沖縄県宜野湾市

 第二次世界大戦末期、沖縄では住民を巻き込んだ凄惨な地上戦が繰り広げられた末、連合軍に占領された。その後は日本から切り離され、72年の復帰まで米軍の統治下に置かれた。5月15日で復帰から50年。しかし、米軍基地はいまだに広大な面積を占め、住民が望んだ「基地のない平和な島」は実現していない。沖縄戦を生き延びた安次富美代さん(90)は「今もいくさ世は続いている」と言う。(共同通信=渡具知萌絵)

 ▽爆弾が雨のように降った

 沖縄戦は1945年3月26日、米軍が沖縄・慶良間諸島に上陸して始まった。4月1日には沖縄本島中部の西海岸に上陸。13歳だった安次富さんは、中部の東海岸側にある中城村の自宅に母と一緒にいた。夕方に突然、母の友人から「ここにいると危ないから、早く島尻方面に逃げて!」と声をかけられた。

 

少女時代 妹と

 親子は急いで南の方向にある南風原村(現南風原町)に逃げた。ガマ(自然壕)に身を潜めていると、夜明けとともに爆弾が雨のように降った。その激しさから「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の艦砲射撃だった。

 午後6時ごろ、爆弾がピタリと止まった。つかの間の静けさ。今のうちにと、向かいの川で洗面と洗濯を済ませた。日が暮れれば海からまた艦砲射撃が飛んでくる。大急ぎで戻らないと危ない。便所もガマの外にあり、命がけだった。食事は1日1回だったが、便所に行かなくてもいいように水分はあまり取らないようにした。

 10代の学徒らも動員され、物資運搬や看護を担っていた。日本軍は5月下旬、首里城の地下に構えていた司令部壕を放棄し、南部撤退を始めた。沖縄戦を少しでも長引かせ、本土決戦を先延ばしにするためだ。そのために地上戦は激化し、住民を巻き込んで泥沼化していった。

 安次富さんは、ガマで一緒になった日本軍の戦車隊の伍長や男子学生ら15人ほどと一緒にさらに南下。糸満方面へ向かった。次の集落から艦砲射撃が激しくなり、地獄道のようだと思った。「自分たちもいつ撃たれて死ぬか分からない」と恐怖にかられたが、どうしようもない。ただ前に進むだけだった。

 ▽どこに行っても地獄

 移動はいつも夜間。歩いている最中でも、次々と打ち上げられる照明弾や、後に続く艦砲射撃を避けるために道路に身を伏せた。臭いがすると思えば、横には複数の遺体。重傷を負った兵士のうめき声が聞こえることもあった。

 さらに先の集落へ進むと、最も激しい攻撃の標的になった。あまりにも多くの死体が横たわり、歩くのさえ足が震えて時間がかかった。「どこに行っても地獄」。これ以上動きたくない気持ちだった。

安次富美代さんが戦争体験をまとめた手記。捕虜になるまで沖縄県内を逃げ回った道のりや体験談が記されている。

 かやぶき屋根の小さな民家に避難していた6月中旬、早朝から激しい空襲が始まった。約20人で肩を寄せ合い、おびえながら耐えていた。突然、爆弾が近くに落ち、安次富さんは全身血だらけになった。「やられた! もう死ぬんだ」と思い、急いで外へ出た。でも痛みはない。「死ぬときは痛くないと聞いていたから、そうなのかな」と思っていたが、体を調べてみると無傷。隣にいた男子学生の血だった。爆弾の破片が直撃したこの学生は犠牲になった。

 食料は全くない。石灰岩でできたガマの壁から滴るしずくをハンカチに含ませてなめ、何とか水分補給をした。本島南端部の摩文仁に着くと、夜のうちに海岸に下りることになった。崖下のくぼみに多くの人が体を丸めて座っている。海に死体が浮いているのも見えた。

 丘の上から飲み水が流れてくると聞き、水筒で水をくんだ。数日ぶりに飲んだ水はおいしかったが、夜明けに見ると、水は血で真っ赤。上の井戸で水くみをした人たちが艦砲射撃の標的となり、多くが亡くなったと後で聞いた。

 6月22日。夜が明け、前に進むことができなくなった。辺りを見渡すと、青いはずの海が米軍の軍艦で真っ黒に見えた。米兵が日本語で「日本は負けた。早く降伏しなさい」と叫んでいる。しかし、誰も従わなかった。

沖縄戦の体験を語る安次富美代さん。「5日間飲まず食わずの時もあった。真っ赤な血が流れる川の水を飲んだりして生き延びた」と話した

 岩陰に一日中、身を潜めて日が暮れるのを待った。岩の中は高さがなく、いったん入ると身動きが取れない。下半身は海水に浸ったまま。用便もその場で済ませ、同じ姿勢で通した。摩文仁の海岸には、想像もできないほど多くの住民が集っていた。沖縄本島の最南端で、その先に行くところはなかったからだ。

 ▽捨て石にされ、戦後も安全保障の負担を強いられた

 伍長の指示で4人一組に分かれた。目立たないように岩肌を登り、陸に上がる。夜中になり、道なき道を歩いている時、これまで無傷だった安次富さんは手と顔にけがを負った。さらに道に迷っていると、伍長らは安次富さん親子に「道を探すから伏せて待っていて」と伝え、どこかへ行ってしまった。彼は自決に使う手りゅう弾を持っていた。

 捕虜になるのを避けた住民の集団自決が各地で発生していた。以前「捕虜になると男は殺され、女は慰み者にされる」と聞いたことを思い出した。母と畑のあぜ道で「どうやって死のうか」と途方に暮れた。

自身がまとめた手記を読む安次富さん

 やがて空が明るくなり、恐る恐る顔を上げると、鉄砲を持った米兵に囲まれていた。逃げることも死ぬこともできない。6月23日の朝、2人は捕虜になった。

 その日、沖縄戦を率いた日本軍第32軍の牛島満司令官らが摩文仁のガマで自決し、日本軍の組織的戦闘は終了。局地戦はその後も続き、現地の日本軍部隊が降伏調印したのは太平洋戦争終戦翌月の9月7日だった。日米で計20万人以上が死亡する結果となった。

 本土防衛の「捨て石」にされ、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。いまだにガマからは遺骨が、市街地では不発弾が見つかる。終戦後は、米軍統治下で「銃剣とブルドーザー」により、米軍基地が次々と造られた。宜野湾市の普天間飛行場もその一つだ。

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 近くに住む安次富さんの自宅からは、市中心部を占める広大な普天間飛行場が見渡せる。上空を飛ぶ米軍の輸送機オスプレイの「バタバタバタ」という重低音が、体に響く。窓から眺めるたびに、沖縄戦の凄惨な光景を思い出すという。「米軍の捕虜になった時に見た、あの青い目は忘れられないさ」

 ヘリの墜落事故や部品落下、激しい騒音、米兵の事件・事故は絶えない。もし今、朝鮮半島や台湾で有事が起きれば、普天間飛行場は重要な米軍の拠点となり、周辺住民は戦闘に巻き込まれるだろう。だから「とにかく普天間を沖縄に返してほしい」と安次富さんは願う。

沖縄戦の体験を語る安次富美代さん。沖縄本島南部での逃避行は「地獄だった」と振り返る

 普天間飛行場の返還は1996年に日米両政府が合意した。しかし、日本政府が移設先を沖縄県内の名護市辺野古に決めたため、結局、沖縄から基地は減らないことになり、新基地建設への反対は根強い。日本復帰から半世紀を経てもなお、沖縄が安全保障の負担を強いられる構図は変わらない。「無理な願いだとは分かっているけど、自分が生きている間に平和な島になってほしいね」。安次富さんにとってのいくさ世は今も続いている。

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