【インタビュー】チャールス・マクファーソンが語る、「組織化したカオス」としてのミンガス・ミュージック

チャールス・ミンガスのアルバム再発に際して、なんと1960年から10年強に渡りそこに在籍したアルト・サックス奏者であるチャールス・マクファーソンがzoom取材に応じてくれる。まさしく、ありがたや。いまや、ミンガスと関わりを持った人の多くは鬼籍入りしてしまっているから。

 1939年生まれ、デトロイト育ちであるマクファーソンは頭髪ふさふさで、かなり格好いい老人だった。そんな彼はチャールス・ミンガスのことをチャールスとは呼ばず、ミンガスと苗字で呼んでいた。それは年長の才人への尊敬の念からか、それとも自分も同じ名前であるからか。まだまだ現役感たっぷりのマクファーソンは1978年以降、西海岸のサンディエゴに住んでいる。

<動画:"Delight" from CHARLES MCPHERSON'S JAZZ DANCE SUITES releasing September 2020.

そうした彼の近作『Jazz Dance Suites』(Chazz Mack, 2020年)は彼が嘱託作曲家となるサンディエゴ・バレエ団へ書いた曲を、わざわざいい音質を求めニュージャージー州のヴァン・ゲルダー・スタジオに行って録った作品だ。実は、娘のカミヨーは同バレエ団のソリストの座にずっと付いている。52歳のとき授かった愛娘だそうで、目に入れても痛くないという感じだった。

(1978年のレコーディング・セッションより。前列右端にミンガスが、後列左から4人目にチャールス・マクファーソンが写っている)

——あなたはデトロイトに住んでいたときに、ジャイムズ・ジェマーソンやピストル・ピートら、後のモータウン(1959年設立)のハウス・ミュージシャンたちと演奏していたんですよね。

「そうなんだよ。ジェイムズ・ジェマーソンは高校のころはアップライト・ベースを弾いていた。彼はジャズをやりたかったんだけど、地元にモータウンができて関わるようになるとエレクトリック・ベースに持ち替えたわけだね。そして、彼は“エレクトリック・ベースのチャーリー・パーカー”と呼ばれたんだよ」

——もし、ニューヨークに行かずにそのままデトロイトにいたら、あなたもモータウンのレコーディング・セッションに関わる可能性もあったのでしょうか。

「わあ、それについてはどうだろうねえ。ぼくはジャズにハマっていたから。とはいえ、モータウンで演奏していたミュージシャンたちは元々ジャズをやっていたんだ。だから、そのままデトロイトにいたら少しはしたのかなあ。ぼくは1959年にニューヨークに行き、その翌年にはチャールス・ミンガスのバンドに入ったわけだからね」

——今、おっしゃったようにあなたは1960年にミンガスのグループに入ります。どういう経緯で、加入したのでしょう。

「ぼくと同い年のトランペット奏者であるロニー・ヒルヤーとお金をためて数ヶ月でもいることができたらと、意気込んでニューヨークに向かったんだ。ラッキーなことにミンガスが僕たちのセッションを見に来てくれて、声をかけてくれた。その時のアルト・サックス奏者はエリック・ドルフィーで、トランペッターはテッド・カーソンだったけど、その3週間後に彼らは去った。2週間引き継ぎの期間があったので、アルト2本、トランペット2本の体制でやっていた(1960年秋録音のキャンディド盤『Mingus』はその顔ぶれによる)」

——当時あなたは二十歳ぐらい、ミンガスのような名を成している人のバンドに入るのことにプレッシャーはありませんでしたか。それとも、超ラッキーと思ったのでしょうか?

「両方だったよ。うれしかったけど、ミンガスが気難しく怒りっぽいという噂は耳にしていたからね。ミュージシャンにも過激に対するというのも知っていたから。だから、ロニーと二人で喜ぶ一方、これは大変なワイルド・ライドになるぞと話したよね」

——実際一緒にやってみると、チャールス・ミンガスはどういう人だったのでしょう。

「想像していた通りのワイルドな人だったね。とにかく、いい音楽をやっているというのは分かっていたけど、現場で何が起こるかが分からなかった。クラブでやっているとき、喋っている客に対して“オマエうるさい、黙れ”とミンガスは平気で言うからね。それで黙る客もいる一方、なんだよと反発する人がいると待ってましたとばかりにミンガスは殴りかかる。クラブのオーナーにもお金をちゃんと払っていないとか、ピアノの調律がなっていないとか、いろんなことに対して文句を言っていた。もう、ドアをけ破る覚悟で何事においてもやりあう人だった」

(1960年代、チャールス・マクファーソンがミンガスのバンドに加入した頃の写真。左手にミンガスが、右奥にエリック・ドルフィーが写っている)

——ミンガスの音楽ってあまりにも魅力的な特殊回路があるわけですが、若かったあなたはすぐそれに対応できたのですか。それとも、最初は試行錯誤の連続だったのでしょうか。

「確かになじむのに時間はかかったよ。最初のころはミンガスに対する恐れもあり、ナーヴァスになった。でも、何がイヤなのか、彼が何に怒っているのかというのを理解するようになると、それも腑に落ちたし、音楽的なことも含めて対処できるようになったんだ。それはぼくがミュージシャンとして腕が上がり、成長していったという部分もある。クラブでミンガスこの野郎と銃をぶっ放すような奴が来たら、ステージの袖に逃げればいいといことも学んだしね(笑)。バンドにずっと在籍していて思ったのは、何が起こるか分からないドラマこそはミンガスが求める核心なんだということ。とはいえ、彼はギリギリ寸前まで行きつつも一線を越えるということはしなかった。だから、混沌をコントロールしている部分がちゃんとあり、そこにはミンガスなりのエンターテインメント精神も横たわっていると理解した」

——ミンガスはどんな観点で一緒にやるミュージシャンを選んでいたと思いますか。あなたのような若い奏者もこだわりなく入れましたし、たとえば彼が最大級に信頼しずっと雇い続けたドラマーのダニー・リッチモンドは1970年代上半期に英国人ロック・ユニットのマーク=アーモンドに突然加入してしまう(4作のアルバムに参加している)という好奇心旺盛さを持ってもいました。また、ピアニストですと、龝吉敏子やポール・ブレイが入っているアルバムもあったりしますし。

(1970年代、ヨーロッパ・ツアーでの写真)

「ミンガスは自分のしたいことをどのミュージシャンを使って表現できるかというのをよく考えて選んでいたと思う。彼が大切にしている絶対的な価値観というものがあって、それをぼくは持っていたということだ。同様に、他のミュージシャンにとっても確固とした理由付けがあったと思う。それって、デューク・エリントンの作法と似ているんじゃないかな。エリントンはそれぞれの奏者たちの強みを活かす形で起用していた。それは音色であったり、その人が持つスピード感やテクニックであったり、各々の強みを的確に拾い上げていた。同様に、ミンガスも抱える多様な音楽のニュアンスをどういうミュージシャンだと具現できるかという観点のもと声をかけていたと思うな」

——管楽器群の音を聞くと奔放でもあり、一方では精緻に重なっていたりもします。それらは、結構譜面にはなっていたのでしょうか?

「うん、多くの場合は譜面になっていた。譜面に従って演奏していき、そこに即興を加えていく感じだった。ロニーと共に関わるようになった初期には、ミンガスがピアノを弾いて曲を示してくれたんだ。そして、彼のなかで出来上がっていくと、譜面にするという流れだった」

——ソロのパートは、自由に吹けという感じだったんですか。

「ああ、ソロは即興だった」

——そんなミンガスのバンドでやっている傍ら、あなたは1964年以降はプレスティッジと契約してリーダー作を出していきます。その場合は巨匠の元から離れて、思うまま自分の音楽を作るという感じだったのでしょうか?

<動画:Epistrophy (Live)

「そのとおり! ミンガスと自分のレコードとは重なる部分もあるし、彼の哲学やアジェンダを共有できる部分はある。でも、ぼくはリーダーとしては違う演奏をするし、違う音楽観も持っていたので、自分のレコードを作るようになった。そしてバリー・ハリス(ピアノ。デトロイト時代からの師である)とかとレコーディングを続けながら、ミンガスとは1972年まで活動をしたんだ」

——今回発売されるミンガスの旧作のなかで、あなたの名前がクレジットされているアルバム2作についてお聞きします。まず、『コンプリート・タウン・ホール・コンサート』ですが、皆でハミングするパートがあったりします。それ、あなたも歌っていますか。

<動画:Freedom (Pt.1 / Live At Town Hall, New York, 1962)

「覚えてないなあ、昔のことだからね。歌っているんだろうね。よく曲の一部を口ずさむということはあったから」

——このアルバムはエリック・ドルフィーと一緒にアルトのセクションを組んでいますが、横にいるとやっぱすげえという感じだったんでしょうか。

「そりゃ、とっても印象的なミュージシャンだったよ。素晴らしくオールラウンドな奏者でもあり一緒にやっていて、すげえなと感銘を受けた。でも、だからといって臆することはなかった。ぼくは自分をまっとうしたよ」

——このころミンガスは曲をばかばか書いていて、リハーサルが追いつかなかったという記述を読んだことがありますが。

「それはおおいにあった。実際、このタウン・ホールの公演でもステージに上がっている時に、新しい譜面が回ってきたのを覚えている。とにかく、ミンガスの頭の中にはいろいろなものが浮かび、それがありすぎて決壊するような状態にあったんじゃないかな。それがこのアルバムでは顕著に出ていると思う。ミンガスの考え方や作曲法というのは言葉にすると、“組織化されたカオス”となる。それは自ら認知するところで、そういうアプローチを好んでいた。偶発的な美点をいかに組織化されたなかで作り出すかということを、ミンガスは求めていた」

——同じく『ミンガス・イン・パリ:コンプリート・アメリカ・セッション』について、覚えていることはありますか?

<動画:Love Is A Dangerous Necessity (Incomplete)

「具体的なスタジオの出来事とかは覚えていないけど、パリに行ったのはよく覚えている。あのとき、ダニー・リッチモンドの演奏がすごい良かったんだよね。奏者がそれぞれに成熟していて、僕もバンドに入ってだいぶ経っていたし、タイトで洗練されたグループ表現をしていたと思う」

——わりと小さな編成で録音されていて、あなたの真価を捉えやすいアルバムと思います。

「おう、ありがとう」

文:佐藤英輔
通訳:丸山京子

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■リリース情報

チャールス・ミンガス生誕100周年 UHQCD名盤・レア盤セレクション

2021年4月20日発売

¥1,980(1枚組)、¥2,860(2枚組) 

UNIVERSAL MUSIC STORE

『コンプリート・タウン・ホール・コンサート』(UCCU-45027) ※日本初CD化『ファイヴ・ミンガス』(UCCU-45028)
『黒い聖者と罪ある女』(UCCU-45029)
『マネー・ジャングル+8』(UCCU-45030)
『プリ・バード』(UCCU-45031)
『グレート・コンサート』(UCCU-45032/3) ※日本初CD化
『コーネル1964』(UCCU-45034/5)
『ミンガス・イン・パリ:コンプリート・アメリカ・セッション (UCCU-45036/7) ※日本初CD化

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