【読書亡羊】自衛官は「職業」なのか 上野知子・武石恵美子『女性自衛官』(光文社新書)、小幡敏『「愛国」としての「反日」』(啓文社書房) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

自衛官を巡る世論の変化

「お父さんが海外に行って戦死して、それで日本人の誰が感謝して、悼んでくれるっていうのよ。『あー死んだね』で終わりだよ!」

自衛隊初の海外派遣を巡って、我が家で交わされた会話だ。「志願したい」という自衛官である父に対し、母は「冗談じゃない」と、こう言い放った。

当時小学生だった筆者(梶原)には鮮烈な印象で、「え、世界のために死んでも感謝もされないの?」と驚いたものだったが、今度は翌年、担任の教師から「あなたのお父さんの仕事は世間で嫌われてるから、親の職業を聞かれたら『公務員』と答えたほうがいいよ」などと言われ、重ねて衝撃を受けたのである。

あれから時代は変わり、世論調査で「自衛隊を信頼する」と答える人は9割にも上る勢いだ。特に2011年の東日本大震災以降は、災害派遣時の自衛官の献身的な姿に多くの人が感動し、感謝の意を表明した。

自衛隊に嫌悪感を示す人もまだまだいるだろうが、圧倒的少数派となり、特に男性自衛官は婚活パーティでも人気のお相手だという。

女性自衛官にも光が当たっている。昨今の少子高齢化、産業人口の減少によるところもあるが、男女共同参画の流れに乗り、かつては男性に限られていた職域も徐々に解放されている。

防大卒の女性幹部が艦長をはじめ、指揮官ポストに就くようになった。一足早く「女性防衛大臣」は誕生したが、「女性幕僚長」もそう遠くない将来に実現するかもしれない。

自衛隊も一つの「就職先」?

女性自衛官を巡る本として、防大卒業後、政治記者となった異色のライター・松田小牧による『防大女子』(ワニプラス新書)や、防衛官僚である上野知子と、女性労働論を専門とする武石恵美子による『女性自衛官』(光文社新書)が刊行されている。

それぞれ視点や取材対象は異なり、『防大女子』の方が「退職した元自衛官」の話も盛り込まれている分、女性たちの葛藤を感じ取りやすい。

ただいずれも自衛隊という圧倒的な男性型組織で女性がいかにキャリアを切り開くか、女性だけが直面する出産というイベントを、女性自衛官、女性幹部たちがどうとらえているか調査・分析している点で共通している。

両方の本から伝わってくる女性自衛官のスタンスについて、『女性自衛官』に印象的な一文がある。

そもそも女性自衛官は、外部の人が考えるほど自身の仕事を特別視しているわけではありません。女性自衛官にとっては、他の仕事と同様に、自衛官という仕事を選んだに過ぎない、という考え方がベースにあります。その意味で、自衛官はあまたある職業の一つで、社会人であることに何ら変わりないのです。

多くの女性自衛官にとって、「自衛官」はまさに職業の一つ。しかも、以前は「世間から嫌われていた」かもしれないが、今は違う。人の役に立てる、世間に認められた自己実現の叶う職業の一つとして、自衛隊という「就職先」が選ばれているということだ。

単なる「便利屋集団では」という強烈な問い

一方で、『女性自衛官』の先の引用はこう続く。

ただし、自衛官の任務の根幹である「国防」という点に対しては強い「自負心」があるのも事実です。

さらりと書かれてはいるが、「国防」という「超」のつく特殊な任務が根幹にある以上、「あまたある他の就職先とそうは変わらない選択肢の一つ」とは言い切れないはずではないか、という疑問は当然、生じてくる。

ここに強烈な一撃を加えるのが、小幡敏『「愛国」としての「反日」』(啓文社書房)だ。副題は〈奇形の軍民関係を正す〉。

元自衛官である小幡氏は、自衛隊を愛そうとし、個々の自衛官を愛してもいるが、そこに「自立・自律の気概」が決定的に欠けていることを強い危機感をもって指摘する。しかも日本全体から気概が失われているからこそ、自衛隊も畢竟そうならざるを得ないというのだ。

確かに自衛隊に対する好感度は上がったが、あくまでも「災害派遣や感染症対応で私たちを助けてくれるお兄さん・お姉さん」としての存在、つまり〈困ったときの便利屋集団〉としての自衛隊でしかないのではないか、と小幡氏は喝破する。

彼らが「命がけ」であることは、国民もなんとなく分かってはいる。しかしそれはイメージでしかなく、まさに「国防」のために敵との戦闘行為で相手を殺し、時に殺される姿や覚悟に対する信頼ではない。

ましてや、一旦ことが起きれば、自衛官を心から信頼し、国の趨勢、自分たちの行く末を預け、ともすれば一緒に戦いさえするというほどの深い信頼関係にはない。

国民の一部は今も「自衛隊が悪事をなすのでは」と疑い、大半は「便利屋」扱い。自衛隊側も「いざとなれば国民は自分たちを信頼してはくれないのではないか」「旧軍がそうだったように、戦後、石を投げられる存在になるのでは」と疑う疑心暗鬼の関係にある。

国民から志願した人々が自衛隊に入っているにもかかわらず、だ。軍民関係において、こんなに不幸なことはない。しかも憲法がそれを後押しする。副題の「奇形」とは、まさにそのことを指す。

そんなことはないのでは、と思うかもしれない。だが、小幡氏が現役時代に接した米軍関係者たちの「一点の曇りもない軍と民の信頼関係」を示す言葉に接すれば、おのずと日本の歪みを直視せざるを得ない。

米国人にとって兵隊は何よりも尊く、その地位は大統領や議会よりも高い。

私は合衆国の若い兵隊たちを百パーセント信頼している。当たり前のことじゃないか。彼らは合衆国のために自らの命をも危険にさらすんだぞ。

国民からの「本当の支持」は存在するのか

自衛隊も、確かに就職先の一つではある。だが国民が真に理解すべきは「職業として自衛官を選んだ者」ですら、有事には多くの国民に先立ってその身を敵にさらさなければならない現実である。

『防大女子』や『女性自衛官』につづられた女性たちの声にあるように、普段は育児と仕事のバランスや、職場でのセクハラに頭を悩ませる女性自衛官も、有事には子供を放り出してでも、銃を手に取らなければならない。その葛藤に悩み、自衛隊を去った女性もいる。

一方で今も自衛隊に残る女性自衛官たちは「『その時』のことは覚悟している」という。

もちろん男性自衛官も、同様に覚悟はしているだろう。

ただし、その覚悟を「職業倫理」や「仲間との絆」だけで支えられるのかには疑問が残る。ひとえに国民からの支持、支援がいる。だがそれは存在しうるのか。あれから数十年経ったが、今もまだ「『あー死んだね』で終わり」なのではないか。

〈自衛隊が案山子というつもりはないが、彼らとて国民が運命を共にする覚悟なしには戦えない〉という小幡氏の指摘は今こそ真に迫るものだろう。

ウクライナ有事を目の当たりにし、日本では「一般人が殺されるのを見ていられない。抗戦するな、逃げろ」と述べる「有識者」も散見される。あるいは将来的には「憲法九条の完全実施」、つまり自衛隊の解散を掲げながら、「政権を取ったら危ない時には当面自衛隊を『使う』」などと言ってのける公党(共産党)の党首がいる。

しかしそれは、カッコつきの有識者や共産党関係者の見識だけに帰する問題ではない。

〈自衛隊の抱える病理とは何か、それまさしく、国民の病理でもある〉という小幡氏の指摘をかみしめるほかない。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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