【陸上物語FILE 9 脇田茜選手】 小出監督の素顔と、今だから言える過去の後悔

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
9人目のゲストは須磨学園高校時代に全国高校駅伝初優勝に貢献し、卒業後は小出義雄監督のもと、豊田自動織機にて活躍された脇田茜さん32歳です。実業団時代には世界陸上10000mに出場、華々しい戦績を残しました。しかし、現役の頃には「走ることしか興味がなかった」と話すほど、自身の体調にあまり向き合えず、怪我に何度も苦しみ、目標にしていたオリンピックの機会を逃してしまった辛い過去を持っています。引退後は管理栄養士としてアスリートを支える側に回った脇田さん。脇田さんだからこそ伝えられる現役アスリートに向けてのメッセージ、伺ってきました。

【関連動画】駅伝強豪校!都大路・初優勝の裏話【脇田茜】【前編】

サッカー少女、脇田茜

ーー脇田さんの陸上物語ですけれども、お生まれが神奈川県のどちら?

神奈川県の横浜市です。

ーー港町ですね。そこからここ、神戸市に移り住んだのが?

小学校3年生の時に、父親の転勤で。

ーーじゃあ、それ以降は関⻄を中心に?

高校3年生まで神戸で過ごして、卒業してからは千葉に移って活動(豊田自動織機)していました。

ーー今はこちらでご活躍、と。

引退してからは関⻄のほうに帰ってきて、兵庫と大阪を行き来しています。

ーーそのあたりもしっかりとお聞きしたいんですけども、まずは陸上競技人生を振り返っていただこうと思います。陸上人生を始めたのはいつですか?

本格的に⻑距離を始めたのは、中学生からです。

ーーそれは陸上部に?

陸上部に入りました。

ーー小学生の頃は?

小学校の頃はサッカーをしていまして、今でも1番好きなスポーツはサッカーなんです。
中学でもサッカー部に入りたかったんですけど、女子サッカー部がなくて。

ーー少年サッカーの中でやっていた?

女子サッカーでやっていました。

ーーなんていうチームですか?

〝ボニーバード〟っていうチームです。

ーー神戸って熱心ですもんね、女子サッカー。

そうですね。

ーーポジションは?

主にフォワードとか。

ーーサッカーを始めたきっかけって何だったんですか?

2歳年上の兄がやっていて。

ーーその時に憧れていた選手っていました?ちょうどほどよいぐらいの先輩で。

いや、全然…。
自分がサッカーをやることにしか興味なかったので。

ーーもし中学にサッカー部があったらサッカーもやってたかもしれない?

やっていたと思います。

ーーそうしたら、「今の脇田さん」がなかったかもしれない!陸上界にとってはその中学にサッカー部がなくてありがとうっていうところだと思うんですけど(笑)。ただ、陸上といえど、短距離もあれば⻑距離もあるっていう中で、選んだのは?

⻑距離です。

ーーそれはどうしてですか?

どうしてでしょう。
でも、⻑距離しか考えていなかったです。
小学校の時に校内のロードレース大会があって、それで「自分って速いんだな」と思っていたので。

ーー何キロくらいを走るレース?

多分1.5kmとかそんなものだったような気がします。

ーー走ったらタイムも良くて?

そうですね、順位も前のほうだったので。

ーーそこでは、主な種目でいうと何メートルをやっていたんですか?

中学生がだいたい800mか1500mなので、私も800mか1500mをやっていました。

校則違反?意外な一面

ーー先生から教わったことで記憶に残っていることってありますか?

中学1年生の時に校則を破ったりとか…(笑)。

ーーこれYouTubeといえども、一生残るものですけれど、大丈夫ですか(笑)?

この朗らかな雰囲気からは想像できない、校則を破る人ってそんなにいないですよ(笑)。
あ、でも、そんなになんか、大したことではない(笑)。

ーールーズソックスをルーズにしすぎたとか(笑)?

あの、なんか…買い食いしたとか。
校外学習にお菓子を持って行ったとか。

ーー悪いですね(笑)!良い子の皆さん真似しちゃダメですよ(笑)!

当時の先生が出場停止に。

ーー厳しい!

それで、よく出場停止になっていて。

ーー常習犯だったんですね(笑)。

1年生の時に出た大会がトラックレース1本と駅伝だけだったんですよ。

ーー真面目な方だとは思いますけれど、早速、ちょっと意外な一面を拝見しているんですけれども。それで、練習に向き合う姿勢が変わった?

本当に陸上が楽しくてしょうがなかったので、校則を破っている暇もなかったです(笑)。

ーー1日にどれくらい走るんですか?

そんなにたくさんは走っていないですが。

ーー具体的に言うと?

1周500mのコースがあって。そこを2周するものを5本ですかね。

ーー2周を5本だったら…5kmくらいは毎日走る?

あとはジョギング程度で、30分ぐらい走ったり。

ーーこのチャンネル、多くの中学生のランナーの皆さんも見てくれているんですけども、(この練習量を)一般的みると?

多分、ガツガツやっている学校に比べたらすごく少ないんじゃないかと思います。

ーーほお。

その中で、1度出たトラックレースがすごく楽しくて。これはちょっと頑張ろう!と思って。そこからめちゃくちゃ頑張るようになりました。

駅伝強豪校、須磨学園へ

ーーでも、周りから見るとガツガツとしていない脇田さんが、須磨学園高校に進まれて。進学先はどうやって決められたんですか?

当時の(須磨学園高校陸上部の)⻑谷川監督が来てくださって。

ーー目に留まったんですね?

留めていただいたんだと思います。

ーーなんで脇田さんを採用したんだっていうお話って後日聞かれたりしました?

いや、そう言う話は全然していないんですけれど…。⻑谷川先生が来てくださった当時、本当に自信がなくて。そんな強豪校についていけるわけがないと思ってたので。
そういうふうに顧問の先生に言ったら、顧問の先生が「じゃあみんなで練習に行かせてもらおう」って、部員と一緒に須磨学園に行かせてもらって。一緒に練習をしたんですけど、なんか、ついていけて…(笑)。いけるかもしれないと思って行きました。

ーー名門校の門をたたいて、練習内容とか量もガラッと変わった?

そうですね。でも、須磨学園もそんなに走る学校ではないんですよ。
ただ、規則や精神面に関しては結構厳しい学校なので。あ、規則はもう真面目になっていたので(笑)。

ーーその精神面ってどんなふうに鍛えられるんですか?

例えば練習で、4分で10000mを走ったりするんですけど。3分55秒〜3分59秒で走らないといけなくて。速すぎると先輩に怒られるし、遅すぎると先生に怒られるんで。めちゃくちゃ気を張りながら練習をしていました。

ーー自分勝手に走るのではなくて。そのトレーニングって、今思えばどういうことに生きてますか?

(走る)リズムを作るということが、上手くなったのかなと思います。
『何分で走れ!』って言われたら、大体それぐらいで走れるんで。
今はちょっと怪しいですけれど、引退してしばらくしてからも『何分で行って!』って言われたら、だいたい時計を見ずにいけるぐらいにはなってました。

ーー体内時計のようです。それって⻑い距離を走るにはとても大事なことなんでしょうか?

そうだと思います。マラソンだと人のペースとかになってしまって、速くなったりすると絶対に後半バテるので。自分でペースを作っていくということは役に立つと思います。

全国高校駅伝 初Vの裏話

ーーそういう指導を受けながら、なんと高校1年生の冬、アンカーとして都大路全国制覇。そして、それが須磨学園高校の記念すべき初優勝だったんですよね。今やもう常勝校ですが、アンカーを指名された時、どんな気持ちだったんですか?

入部をした時から、絶対1年生で走りたいってすごく思っていて。なので、すごく嬉しかったです。

ーープレッシャーというか、ドキドキというのは?

選ばれた時はすごく嬉しかったんですけど、やはりタスキをもらった時はもう、必死でした。

ーーその時を振り返っていただいていいですか?

後日、⻑谷川先生がインタビューとかで、『私(脇田さん)が最初に突っ込んで入ったから、後続が追う気が無くなって、それでいけた』みたいな話をよくされてたんですけど。実は、ストップウォッチが押せていなかったんです(笑)

ーー焦らなかったですか?!

焦りました。ストップウォッチを押したつもりだったんですけど、1kmで見たら「00:00」で。『もう何分で走っているか分からない!』と思って。必死にとりあえず逃げました。

ーーそれが不幸中の幸いだったのか…。

それが多分、(ペースが)速く入ってたんだと思うんですよ。
もし時計をスタートしていたら、もっと焦っていたと思うんです。『やばい、速すぎた!』ってなっていたと思うんですけど、もう分からないから…(笑)。

ーー最後まで突っ切ってしまえと(笑)。コンディションも良かったんでしょうね。

後で映像を見たら、最後はもう足動いていなかったんですけど。
気持ちで逃げ切ったという感じでした。

ーーフィニッシュテープを切った時って記憶にあるものですか?

いや、もう訳がわからなかったですね。『やってやった!』って感じではなくて、普通でした。

ーーそれだけのトレーニングをしてきたし、チームとしての自信もあったし。⻄京極陸上競技場の大歓声っていうのは、耳には?

あまり入っていなかったと思います。覚えていないので。

ーーそんな経験ができるのも、本当に限られた人間の…。

今思えば、すごくありがたい。先輩たちにも恵まれたので。

ーーただ、順風満帆ではなかった。自身のラストイヤーになる高校3年生の時、大会の前日に…。

1週間前ぐらいに、なんかちょっと足が痛いなと思って。でも騙し騙しに2、3日やったんですけれど、これは多分チームに迷惑をかけると思って。先生に言って、メンバーから外してもらいました。

ーーご自身から?

痛いって言ったと思います、確か自分から。

ーー最後の3年生だし、走りたいっていう気持ちもあったんではないですか?

私、2年生の時に1区を走っているんですよね。その時、まぁまぁのプレーキをかけたんですよ、確か12番ぐらいで。それもあって、チームが走れないことのほうが怖かったんです、

ーーまさにそれが、高校スポーツとしての駅伝の魅力なんでしょうね。

高卒で豊田自動織機へ

ーーそして、高校卒業後は豊田自動織機へ。これは、どういう中での選択だったんですか?

もともと栄養学を学びに大学に行こうと思ってたんですけど、小出監督が来てくださって。

ーー須磨学園高校まで?

1番最初は、世界クロスカントリー(2005)に行った時、監督が空港に来てくださって。
ちょっとお話をしたんですけど、それがすごく嬉しくて。

ーー陸上を知っている人じゃない方でもご存じの名監督。高橋尚子さんもお育てになった。お亡くなりになりましたけれど…小出監督が、わざわざ脇田さんの元に会いに来てくれて。

多分その時、他の選手も一緒にいて。監督は、その選手たちにも会っていたんですけれど…とにかく、声をかけてくださったのがすごく嬉しかったです。

ーーなんて言われたんですか?

全然覚えていないんですけれど…(笑)。

ーーあの、脇田さん大体覚えていないです(笑)!

そうなんですよ、全然覚えていないんですよ(笑)。

ーーでも会いに来てくださったというのは事実で。

嬉しかったというのだけは覚えています(笑)。

「褒めて伸ばす」小出マジック指導法

ーー節々で人生の転機を迎えるところがおありで。中学に女子サッカー部があったら陸上はやっていなかったし、空港に小出さんが来てくれていなかったらここまで陸上にのめり込まなかった。

もともと、嬉しかったという気持ち1つで行ったので、特にオリンピック出場とかは考えていなかったんです。行ける訳ないと思っていたので。とりあえず行って、出来るところまで頑張ろうという感じだったんですけど。毎日、監督が「オリンピックにいけるよ!」と私に言ってくださるので。多分、それが小出マジックだと思うんですけれど(笑)。でも、毎日言われていると、なんかいけるのかな?と思い出して。それで、目標になっていったっていう感じでした。

挫折を繰り返した陸上人生

ーー日本選手権(2007)女子10000m /4位という好成績を残して、10代で世界陸上2007(当時19歳)にも挑戦しました。この時って振り返るとどうですか?

その時も目標がオリンピックだったので、世界選手権に出られるっていうのはすごく嬉しかったんですけど、そこまで『やった!』っていう感じはなかったですね。

ーーまだ通過点だった?

そうですね。だと思っていたんですけれど、実際の成績は全然よくなくて(15位)。すごくなんか…代表で走ったのに、申し訳ないというのと、恥ずかしさで落ち込みました。大会の後は。

ーーその恥ずかしさっていう表現もご本人にしか分からない部分だとは思うんですけれど…。

結構、スローペースだったんですよね、最初が。ここでも自信の無さが出るんですけど、
前に出されそうになって。でも『前に出たらダメ!』って、なんか思ったんですよね。
後ろのほうに下がってしまって、そこからもうずっと後ろで走っていたので、恥ずかしいしかなかったです。その当時は。

ーーその気持ちはどれくらい続いたんですか?

結構続きました。でも、日々練習をこなすのに必死になっているうちに、また頑張ろうと思うようになりました。

ーー都大路(全国高校駅伝)で1年生にして優勝のフィニッシュテープを切って。でも、2年生の時には大ブレーキをかけてしまった経験も。自信をつけては失って…もし、この繰り返しがあるならば、全日本実業団駅伝もそうなのかなと…。

そうですね。
全日本実業団駅伝も、自信をつけては失い…の繰り返しでした、ずっと。

ーー2007年は振り返りたくないご記憶かもしれませんけど、ご自身のブレーキで…。

あの時は…こんなことを言っていいのか分からないですけれど、ずっと足を痛めていたんですよね。痛いって言っていたんですけれど、⻑距離を走れる選手があまりいなくて。
前日か当日に痛み止めを打って(会場に)向かった。ですから、心も負けているんですよね、最初から。なんか不信感が募ってしまったというか…。

ーー不信感というのは?

これだけ訴えたけどダメだったっていう感覚が大きかったです。

ーー⻑かったでしょう、タスキをもらってから。その時の気持ちっていうのは?

早く終わらないかなと思っていました。

ーーただ、それもまた乗り越えて…翌年には全日本実業団女子駅伝(2008)で初優勝されるわけです。どうでしょう、脇田さんにとって駅伝ってどんなものですか?

駅伝は…本来は好きなんですけれど、プレッシャーのほうが大きくて。好きだけれど、苦しいっていう印象でした。

ーー今だからこそ出来るお話もしていただきましたし、駅伝を頑張っているジュニアの選手だったり…『わかるわかる!』って頷いてらっしゃるかもしれませんけど、プレッシャーがあるからこそ生まれる一体感であったり。

そうですね。

ーーまさにタスキでつながる心の絆といったところですかね。

五輪挑戦を支えた〝小出監督の素顔〟

ーー駅伝もやりつつ、目指すはオリンピック。具体的に言うとロンドンオリンピックを目指されていた?

1番思い入れが強かったのは、ロンドンオリンピックでした。

ーーそこまでの挑戦を振り返るとどうでしたか?

そこまでは、私、本当に故障が多くて。良い練習をしては骨を折る、の繰り返しだったんですよね。なので、焦りしかなかったです。

ーーそれまでは陸上人生を中学から振り返って、走る楽しみや、好成績を出す達成感、陸上競技との相性の良さに対する満足感っていうのびのびとした気持ちが、焦りとかプレッシャーとか…どちらかというと辛い部分が増えてきた中での挑戦になってきたんですかね。そういう時に小出監督はどういう声をかけてくれるんですか?

小出監督は常に『大丈夫!行ける!』っていう感じだったので、褒めてのばしてくださいました。

ーーそんな励ましがあったから、なんとか前を?

大丈夫って言われると、すごく安心するんですよね。それが、すごくありがたかったです。

ーー世間的にも豪快な監督のイメージがあるんですけど、ぶっちゃけ、どんな方だったんですか?

豪快で、寂しがり屋ですね。どこか海外のレースに行った時だったんだと思うんですが、監督が多分アイス食べたくて、「一緒に食べよう」って(笑)。一人で食べればいいのに(笑)。

ーー甘えたさんというか、まさに寂しがり屋さん(笑)。

みんなを誘いたがりますね。

ーー本当、愛された監督さんというイメージ。

愛されていたと思います。
練習中はみんな気が張っていて、すごく気が強くなっているので。今考えたら、本当に監督は大変だったと思うんですけど。

今、明かされる「引退」の理由

ーーその気の強さがレースにも現れるわけで。それもわかった上で、包み込んでくれた監督さんと共に目指した2012年、夢が途絶えた時、引退の二文字が?

そうですね。
オリンピックに行けなくて引退を考えたというよりも、やっぱりもう、故障が多くて。
年に1、2本しか走れてなかったんですよ、試合で。
お金をもらってやっているわけなので、申し訳ないなっていう。あと、痛みを堪えて走っているうちに、速く走る走り方が分からなくなってしまって、無理だなとも思ったんです。
信じ続けられなかったっていう言葉が一番合うと思うんですけども。もうオリンピックに行けないなら、と思って辞めようと決めました。

管理栄養士の道へ進む

ーーそして今は管理栄養士として、選手を支える側に。この決断っていうのはどのタイミングで?

引退してからは神戸市の外郭団体で働かせていただいてて。何かやりたいなと思った時に、『そういえば栄養を学びたかったな』と、思い出して。

ーー小出さんに声をかけられていなかったら大学で栄養学の勉強をしていたんですもんね。

そうですね。それを思い出して、専門学校に行って学んでいるうちに、最初はそんなにスポーツに関わりたいなと思っていなかったんですけど。体のことを学んでいたら、これを知っていたらもうちょっと現役を⻑くできたんじゃないかとか、怪我も少なかったんじゃないかとか。何か変わっていたんじゃないかと思って。もう引退してからだいぶ経っているし、自分の体ではどうすることもできないので、それを(現役ランナーに)伝えていきたいなと思って。

ーー現役時代の故障との戦い。苦しい思いをした脇田さんだからこそ伝えられる思いというところですかね。今、スポーツのみならずですけども、こういったコロナ禍で食事面やトレーニングの調整がいつも通りにできない。こういった状況、どうやって支えられてるんですか。

今実際に関わっているのは、9人制バレーボールの実業団チーム(デンソー)なんですが、選手達って、普段働きながら、ちょっと早めに仕事を終えてから練習して。帰ったらもう20時とかなんですが、そこから自炊の準備をしてという生活なんです。
もともと、そんなに食事や栄養には興味のない選手達だったので、興味を持ってもらうことから頑張っている最中です。

正しい知識を持ってヘルスケアを

ーー陸上に話を戻しますと、めちゃくちゃ練習をするわけなので、消費するエネルギーもすごいじゃないですか。でもランナーって軽やかなほうが速く走られるという思いがあって、あまり食べない人もいるって聞くんですけども。

全然食べない選手と、すごく食べる選手とに分かれるんです。私はすごく食べる選手だったんですが、チームメイトの中にはご飯を欠食する選手も多くいて。やっぱり、みんな故障も多かったんです。そういう、知識のない選手を作らないようにしていきたいなという思いが今、1番強くあります。ただ、自分も(体が)軽いほうが走れたというのは身をもって体験をしているので。人伝手に相談を受ける中、体重を増やしたくないから、なかなか食事を変えられないっていう選手もいると聞くので、自然に改善してもらえればっていうのが今の目標です。

ーー具体的に言いますと、体重を増やさないようにしながら強い体を作るというのは、市⺠ランナーの皆さんもぜひ聞きたいところだと思うんですけど。

体重を増やさないということよりも、体脂肪を増やしすぎないっていうことだと思うんですね。どこを減らして、どこを増やすかとか…そういうことになってくると思うんですけど。
個々によって今、食べているものとかも違うので、皆さんに当てはまる提案っていうのは難しいんですけど。SNSで入れた知識じゃなくて、ちゃんとした知識を入れてやって欲しいなっていうのは思います。

ーー女性アスリートならではのお悩みもあるとお聞きしたんですけど。

生理が止まってしまう選手がすごく多い。
私自身もすごく止まっていて。当時、母親が心配をして、『子どもを産めなくなるから、ちゃんと病院に行きなさい』って言われてたんですけど…その時は、本当に『オリンピックに行けたらいい』と思ってたので、『子どもなんていらないし』っていう感覚だったんですけど。今、それをすごく後悔しています。あの時の自分を恨みたいって思うぐらい後悔をしているので。そういう選手をなくせるようにサポートをしていきたい。(大切なのは)放置をしないことですよね。生理が3ヶ月以上止まっていたら、やっぱり婦人科に行って1度診てもらうとか。(生理が)来ないほうが楽だから、どうしても放置してしまうので。なので、そこに関してはきちんと伝えたいです。

ーー世界の舞台を踏める人って世の中にほとんどいませんし、成績だけで見ると大変華々しく、輝かしいものをお持ちだけれど、その裏側では、ご怪我で苦労されたりとか、『あの時、あぁしておけば良かった』と思うこともある。その時のお気持ちを今の仕事に生かされているんだなと感じましたね。

メッセージは「〝少し先の自分〟を大切にできるように…」

(色紙を指して)〝未来の自分のために今の自分を大切に〟してください。
今やりたいことをするっていうのは簡単だと思いますが、少し先の自分も大切にできるように、今の自分を大切にしてほしいなと思います。
やっぱり、走ることにしか興味がなかったので、どうしたら怪我をしないかとか、何を食べたらいいのかとか、全然、自分で勉強してこなかったんですよね。
もうちょっと、先のことを見ることができたら、変えられていたこともあるんじゃないかなと思うので。今、現役で頑張っている人達には、少し先のことも考えてほしいと思います。

正しい知識を持って、いろいろと助言をしてくれる人が周りにいるっていうことはすごく大事なことだと思うので、そういう環境も個々にたくさん作ってもらいたいと思います。

※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。

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一般社団法人 陸上競技物語公式サイト 【関連動画】小出監督の素顔と、今だから言える過去の後悔【脇田茜】【後編】

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