社会課題解決を起点にした経営 セブン&アイ鈴木敏文氏とダイヤル・サービス今野由梨氏が次世代に伝えるメッセージとは

昭和の高度経済成長期から平成、令和へと経営の第一線で日本社会をリードしてきた2人の経営者の対談がサステナブル・ブランド国際会議2022横浜で実現した。女性起業家の草分け的存在であり、世界初の双方向電話情報サービス事業を始めたダイヤル・サービスの今野由梨社長と、日本にコンビニを根付かせたことで知られ、「小売りの神様」とも称される、セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文名誉顧問だ。インターネットも24時間営業の店もなく、女性の社会進出もまだまだ遅れていた時代から二人は何を指針に道を切りひらいてきたのか。次世代に語り継ぐべき貴重なメッセージを届ける。(廣末智子)

パネリスト
今野由梨・ダイヤル・サービス 代表取締役社長  
鈴木敏文・セブン&アイ・ホールディングス 名誉顧問 
ファシリテーター
村井宗明・元文部科学大臣政務官、ITエンジニア  

「試練のたびにここから頑張る」共通の生き方

「鈴木さんは52年、私は53年。会社の規模の違いはありますが、創業経営者が前例のない仕事を始めてこれだけ続いているのはほかにないと思う。私も鈴木さんも試練を受けるたびに、さあここから頑張るんだという共通の生き方をしてきました」

対談の冒頭、今野氏は自らと鈴木氏の歩みをそう重ね合わせた。今野氏がダイヤル・サービスを創業したのはまだ人々が電話を気軽にかけられる時代ではなかった1969年のこと。そもそも起業という道を選んだこと自体が、女性の社会進出が今とは比べ物にならないほど遅れていた時代の試練と向き合った上での決断だったという。

三重県出身の今野氏は津田塾大学を卒業後、どこの企業にも採用してもらえなかった。そればかりか「企業がいちばん必要としていない」とまで言われて就職を諦め、「10年後に起業をする」という誓いのもと、20代のほとんどを「世界放浪の旅」をして過ごしたのだ。

誓い通り、10年後に帰国した日本で見たのは、高度経済成長による核家族化が急速に進むなかで、育児に疲れ、我が子をコインロッカーに捨てるといった事件も多発していた時代の、女性たちの苦しむ姿だった。そこで「こんな国にしておくわけにはいかない。女性も子どももみなが愛し愛されながら暮らせる時代に戻すにはどうしたらいいか」と考え、起業して最初に手がけた事業が、電話を今でいう双方向メディアと捉えた相談サービス「赤ちゃん110番」だ。

「悩みを抱えている女性たち本人が声を上げられるものはないかと周りを見たら、電話しかなかった。世界の歴史が始まって以来の、生活者が発信者となるサービスです。しかし、そこからがまた試練の連続で‥」 (今野氏の53年にわたる経営者としての試練の日々は後述する)

鈴木氏 原点にあるものの大切さ語る

一方の鈴木氏は1970年代に日本で初めてコンビニチェーンを展開した、小売業界のレジェンドともいわれる存在。1932年生まれと、SB国際会議では最高齢の登壇者であり、落ち着いた佇まいのなかに圧倒的なオーラが感じられる。

「私は学校を出てすぐに出版物の取次会社に就職し、出版科学研究所の第一号の研究員として仕事を始めました。大学で勉強をするよりも、会社へ入っていろんな先生方を紹介していただき、それで勉強をしたような格好です」

鈴木氏の話は、自身の社会人としての第一歩を回想することから始まった。中央大学を卒業後、東京出版販売(現トーハン)の社員として、谷崎潤一郎をはじめとする名だたる作家や評論家と膝を交える機会に恵まれたこと、また職務柄、「毎日仕事が終わる午後5時から大学の先生にお見えいただき、統計学と心理学の勉強を、自分で好んでしたというよりはさせられた」こと。それらが「今になってみると自分には役に立ったと思っています」としみじみと語り、原点となるものの大切さを強調した。

流通業へと進んだのも、出版物の研究を続けるなかで「今度は流通のことを、実際に産業界に入って勉強したい」と思ったことがきっかけだったという。

出会いは若者の声聞く「ヤングトークトーク」

鈴木氏と、今野氏の経営者人生はどこで交差したのか。

今野氏は「赤ちゃん110番」に続き、「子ども110番」「熟年110番」「ハンディキャップ110番」と、次々に悩みを抱える当事者に寄り添う電話サービスを展開していった。さらに1981年、それまでとは違う観点の事業に乗り出す。

「日本の若者にもっと元気になってほしい。自分達が考えたことを世の中に発信する、発信者としての自覚を持つようになってほしいと思ったんです」(今野氏)

まるでツイッターなど現代のSNSを先取りしたかのような発想だが、これが、その名も「ヤング・トーク・トーク・テレホン」という事業。この時、今野氏が「これはこの方に応援してもらうしかない」と考えたのが、すでに日本で初めてのコンビニであるセブンイレブンを全国展開していた鈴木氏だった。鈴木氏は瞬時に支援を快諾し、「お願いするはずだった金額を言う前にもっとたくさん出してくださることになった」(今野氏)という。

事業は原宿の交差点のビルの一角に専用の部屋を借りてスタート。それまでの電話サービスは有資格者が対応していたのに対し、電話を通して「全国どこの若者でも言いたい時に言いたいことを言い、かたや全国の人と自分も話したいと思う人がそれを受け」というのがヤング・トーク・トーク。原宿の事務所には多くの人が訪れ、そこからたくさんの提案が生まれた。

今野氏によると、なかでも、夜学に通っている人や毎日残業で帰るのが夜中になる人たちの間から「24時間営業の店舗がほしい」「お店に行けば、いつでもあったかいおでんが食べられるようにしてほしい」といった声が上がった。それに応えてある時、セブンイレブンの24時間営業が実現し、店内で熱々のおでんが売られるようになったのだという。

鈴木氏は「なぜこのヤング・トーク・トークを支援しようと思ったのか?」という質問に対して、「相当時間が経っているから、細かいことは忘れてしまいましたけれどもね」と応じつつ、「今野さんとはもうずっと、兄妹のような関係が続いてきましたから」と微笑んだ。

セブンイレブンが24時間営業となり、看板メニューのおでんが生まれた背景に、ヤング・トーク・トークからの提案が大きかったのかどうかの詳細はともかく、その時々の社会課題の解決に向け、同じ時代を走り続けた両氏の絆がうかがいしれるやりとりだ。

小さい店は小さいなりに変えていけばいい

鈴木氏はそもそもなぜ、日本でコンビニを展開したのか。この真髄に迫る問いに対して鈴木氏は、「日本にはご存知のように商店街があったが、みんな小さい店で世の中の変化に対応できる店が少なかった」と切り出した。そして「だがそれは店が小さいから対応できないんじゃなくて、意識改革ができないから。何も大きなスーパーやデパートでないとだめなわけじゃない」と語気を強め、「小さい店は小さい店なりにどんどん変えていけばいいじゃないか、ということでコンビニというものをつくったんです」と理由を説明。

さらに、「店というのはその地域に住んでいる人の生活に合ったものでないといけない」として、「アメリカのコンビニエンスストアと日本のコンビニエンスストアとは違う。コンビニはアメリカから輸入したものではない」と強調した。

キーワードは「世の中の変化に対応する」。鈴木氏がセブンイレブンを通じて行ったさまざまな改革の中でも有名な、セブン銀行をつくったことに関しても、「自分が不便だなと思ったことに対してカッコよく言えば挑戦する。銀行が9時に始まり3時に終わるのでは、24時間仕事をする時代にそぐわない。都市銀行と同じようなものをやろうと思ったわけではなく、小銭の出し入れが簡単にできればいいじゃないか、と。何も世の中に先行するのではなくて、世の中が変化しているから、その変化に対応しているだけなんです」と語り、伝説に違わず、筋の通った姿勢をみせた。

長野県出身の鈴木氏は8人きょうだいの下から2番目に生まれ、5人の姉がいた。明治26年生まれの母親は教育に熱心で、「女性とか男性とかいうことを特別意識することなく育った」という。このことが会社での女性登用につながる。社会に男尊女卑という言葉が厳然とあり、女性役員がいる企業などほとんどなかった時代から、鈴木氏は「子会社の社長を女性にするということも当たり前に」行った。

「これは一つの習慣のようなものですが、女性だから、男性だからと区別して考えるべきではないというのが私の信念です」(鈴木氏)

一方のダイヤル・サービスは1985年に男女雇用機会均等法ができるまで社員は女性ばかりで、「経営者も役員も平社員もなく、みんなで力を合わせて社会課題の解決という使命に飛びかかってきました」(今野氏)。1994年にはニューヨークに支社をつくり、今野氏は、米国の女性起業家トップ200人のメンバーにも日本人として初めて選ばれている。

日本の女性起業家の草分け的存在の今野氏の活躍は、鈴木氏の目にある意味、当然のこと、として映っていたのではないだろうか。

法改正に約20年 「喧嘩仲間も今では応援団に」

今野氏の試練に話を戻す。世界初の電話サービス「赤ちゃん110番」は開始したその日から電話が殺到し、回線があっという間にパンクするほどの反響だった。すると「国の財産である電話回線をパンクさせた」として電電公社(現NTT)に連行され、始末書を書かされる事態に。結果として今野氏は約20年かけて法改正を勝ち取ることになるのだが、この間の悔しい思いは今もこみあげてくるようだ。

「どんなに国から叱られ、いじめられようと私はサービスをやめることはできませんでした。なぜなら電話の向こうに、たくさんの悲鳴があったから。やめろと言うんだったら、国はもっとそういう人たちへの対応を考えた上で経済成長をするべきだと、どれだけ喧嘩したことか」

恨みごとを言うだけではない。今野氏のすごいところは、冒頭の言葉にもあるように、数々の試練を受けるたびに気持ちを奮い立たせてきたことにある。それを象徴するように、今野氏は、電話サービスを巡る苦労を振り返った後、「かつては喧嘩相手だった国や行政の担当者も、今ではみんな私の応援団になって、仲間になって、支えてくれる時代になりました」と穏やかに語った。

時代は変わり、ダイヤル・サービスは今、いじめやハラスメント、企業倫理など幅広い領域に事業を広げ、相談窓口もLINEやメール、SNSなど幅広い手段で提供している。セブンイレブンと同じく、社会の変化に対応し続けている。

個人的な挑戦としては、1992年に「マラソンゴルフ」の日本記録を樹立したり(1日に153ホール、8.5ラウンドを歩いた)、99年には米国・ワイオミング州のミドルティートン山(標高約3900メートル)に登頂したことも、この日、写真とともに披露した今野氏。当時は「無理やり元気を装っていた」と言うが、今年で86歳になるという今、その表情は生き生きと輝く。2020年に行った創業50周年の式典では、「これまでの経験を生かして使命を果たすため、あと50年頑張ります」と宣言したという。

90歳になっても歳をとったと思うとだめだ

最後に、若い人へのメッセージを求められた鈴木氏は、「そう言われても、自分ではまだ若いと思っているから」とユーモアで応じて会場を和ませ、「90歳になっても、やはり自分は歳をとったと思うともうだめだ」と続けた。

実際には耳が遠く、「補聴器を使っても半分しか聞こえない」こともあって「半分は想像で対応している」ことも明かした鈴木氏。「年をとるとだんだんと想像が多くなってくる。その想像が的が外れている場合もあるけれど、やはり常に自分で先を読むという考え方をしていくことが必要じゃないかと思う」と述べ、老いさえも前向きに捉えていることを強調した。

その上で鈴木氏が発したメッセージは、「常に5年先、10年先に世の中がどう変化しているだろうかということを想像しておくことが大切ではないか。そういう意味ではニュースを常に頭に置き、それに対応できるように準備しておくことが重要だと考えています」というものだ。

今野氏は「今、きな臭い問題が地球のあちこちで起こっているが、その一つひとつを自分の問題と捉えて行動する。それが今の時代に生を受けた一人ひとりの役割だ」と提言。「使命があれば絶対にできる。試練は次なる飛躍のため。みなさま方の素晴らしい人生のために、ありがとうと言って引き受けましょう。それが経験した者にしか言えない、心からのアドバイスです」と締めくくった。

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