【特別寄稿】パチンコ産業の歴史②「連発式パチンコの規制~復活!第2期黄金時代へ」(WEB版)/鈴木政博

創刊60周年記念にあたり、業界の歴史を振り返る意味において「パチンコ産業の歴史シリーズ」を再掲載しています。
※この原稿は2010年5月号に掲載していた「パチンコ産業の歴史②」を一部加筆・修正したものです。

1. 連発式パチンコの規制
「連発式」と「オール20」の人気から、ピーク時のホール数が45,000店舗にまでのぼる「第1期黄金時代」を迎えたパチンコ産業。しかしこのブームの終焉は思いの外、早く訪れた。1952年発売、第1期黄金時代の火付け役となった「オール20連発式」から二年後の1954年、風俗営業取締法の一部改正により3号営業の追加規定として法律に初めて「ぱちんこ」の名称が登場すると同時に、東京都公安委員会を皮切りに各都道府県の公安委員会が1955年3月をもって連発式パチンコを禁止すると通達。同年10月にはオール20も禁止されることとなる。

規制の理由は何か。当時の貸玉料金は1個2円、景品上限額が100円。「オール20」は、どの入賞口に入っても20個の払い出しがある機種なので、1回の払い出しは40円だ。これが一度の払い出しの上限だが、この数値だけでは当時の射幸性は掴みづらい。

では打ち出す消化スピードはどうか。こちらが連発式の禁止につながっている。連発式とは、元来は左手で1個1個を穴に入れてからハンドルを弾いて打ち出していたものを、一度に一定量の玉を込めても、打ち出すごとに一発一発が補填されていくというもの。「デンデン虫」と呼ばれた機械のヒットをきっかけに改良は続き、次に左手で玉を穴に入れなくても沢山の玉を一度に置くことができる「上皿付き」が登場、さらには賞球の払い出しも上皿に出てくる「循環式」も登場した。循環式の1号機といわれる「上皿付き高速連射機」は「機関銃」と呼ばれ大人気を博すが、こちらは一分間に160~180発の発射が可能であったといわれる。一口に180発といっても、金額に換算すれば一分間に360円。これだけ見ると現在の一分間に400円と大差ないが、今とは物価が圧倒的に違う。現在140円であるJR山手線の最低区間料金(2022年現在)が、わずか10円だった時代。単純に14倍の物価差があるとすれば、その射幸性は現在の10倍超となる。今の時代に換算すれば、4円の玉が一分間に1,250発以上、貸玉料金にして5,000円以上が発射される機械と同等となる。

この著しく高い射幸性によりパチンコ産業は第1期黄金時代を築くが、この連発式規制の直接の引き金となったのは「モーターパチンコ」であるとも言われている。この「モーターパチンコ」とは、遊技者がハンドルを弾かなくてもモーターで自動的に発射される代物であったが、一分間に約200発が発射されることもあり真っ先に目を付けられ、即座に一定の猶予期間の元に禁止措置となった。この一件からモーター式だけでなく連発式自体も問題視され、その結果、全国警察本部長会議で「単発式を除くぱちんこ機械は遊技者の射幸性を著しくそそるおそれがあり、遊技機として不適切」という採択がなされることとなる。

ただしこのモーターパチンコの一件は、あくまできっかけではあるものの、既に連発式によりパチンコ人気が高まる一方で、夢中になりすぎて生活を破綻させてしまう、現在の言葉で言う「パチンコ依存症」なる人達も発生しはじめていた。また投資金額が高いため、景品を取っていては次に打つ資金がなくなるため、当時は店舗の外で立って景品を買い取っていた「バイニン」に景品を買い取ってもらうケースも日常化していた。こういった現状を放置することは出来ないとして、ついに1955年、各公安委員会により3月に「連発式パチンコ」が、10月には「オール20」も禁止される、という経過をたどる。2. 「連発式パチンコ」規制の内容
1955年3月以降の連発式の禁止に伴い、行政として各公安委員会が認めるぱちんこ機の基準として「一式」「二式」「三式」と呼ばれる3つのタイプのみが許可されることとなった。その内容とはどのようなものか。

まず「一式」だが、これは上皿がなく「手で一個ずつ玉を投入して発射するもの」だ。いわゆる連発式登場以前の形態だ。これは発射に時間がかかり射幸性は抑えられるメリットはあるものの、左手で一発ずつ入れるスタイルは、遊技者の労力も大きい。次に「二式」と「三式」だが、これらはどちらも「上皿付き・循環式」がOKなものだ。ここで言う「循環式」とは、セーフ玉が上皿に払い出されることで、手で発射玉を込める必要がない、という意味となる。機関銃と同じ形態ではあるが、これに射幸性を抑える仕組みを併せ持つことが条件となる。具体的には、「二式」においては「発射された玉がアウトかセーフかを確認した後でないと次の玉を発射できない仕組みも有するもの」で、「三式」は「一分間に30発以内の遊技球しか発射することができないもの」だ。単純にいえば、射幸性を3分の1にする、という規制内容であり、当然ホールの売り上げも、同一稼働の前提であっても3分の1に減少することとなる。もちろん「機関銃」と呼ばれた連発式循環式パチンコに魅せられたファンがこの内容で納得するわけもなく、人気、稼働ともに急激に低下していった。

この連発式禁止の規制内容を受け、ホール組合である「全遊連」も臨時理事会を開催、「危機突破対策委員会」を発足させるなど事態打開に動いたが、改善策は見つからずにホール件数も減少の一途を辿る。何と、最盛期に45,000店舗あったホール件数は同年中に12,300店舗にまで激減。減少率73%超という驚異的な数値だった。そしてその後も転廃業者が続出。閉店するホール、スマートボール店に転業するホールなどが相次ぎ、1956年には10,000店舗を割り込み9,300店舗に、翌1957年には8,400店舗まで減少してしまう。

一方で、最盛期は600社あったといわれるパチンコメーカーも多くが倒産、廃業を余儀なくされる事態に。まさにここに「パチンコ冬の時代」が到来したのだ。3. パチンコを復活させる秀逸アイデア「役物」の登場
パチンコメーカーも、衰退の一途をたどっていく業界を指を咥えて見ていた訳ではない。例えば前述した「二式」においては、玉がアウトかセーフかが早く判別できるよう、盤面の下半分をカットし瞬時にアウト穴までたどりつく「半ゲージ」などを発売したが、人気回復には至らなかった。そんな冬の時代を救ったのが、当時「西陣」が発明・ 開発した「役物」だった。

当時のパチンコ台の盤面には、中央部分に「賞球ケース」なるものが搭載されているのが普通だった。これはチャッカーに入賞した時に、実際に払い出される玉を貯めておく装置であり、その払い出される玉を客に見せることにより期待感を高めていた代物だ。1957年、西陣が発売した「ジンミット」は、この盤面中央部分に「役物」を初めて搭載した。これは、この「役物」に入賞した玉が、役物内を通って他の入賞口上部に導かれ、結果として入賞を容易にするという仕組みであり、盤面中央という最も目立つ場所に位置するこの役物は「センター役物」と呼ばれ、大評判を巻き起こす。それまでは盤面にバラバラにある各入賞口に、それぞれの玉が入るのを期待するゲーム性であったパチンコを、この「センター役物」の搭載により、「とにかく役物に入れば…」というゲーム性に一変させたこの発明は、一大変化をもたらした。ちなみにこの「ジンミット」という機種名は、パチンコ業界の不況とは正反対に「神武景気」に沸いていた日本の好景気にあやかりたいとして「神武景気をミットで受け止めたい」という願いが機種名になったとも言われている。

役物という発明で一筋の光を見出したパチンコメーカーは同年、「平和」がこの「センター役物」にさらに改良を加え、役物に風車を搭載、役物に動く仕組みを追加した「コミックゲート」を発売。この後、各社から続々と「役物搭載機種」が発売され、再びパチンコ人気は高まっていく。

この「役物」の人気を背景に、ホール件数はこの年1957年に8,400店舗まで減少したのを最後に底を打ち、翌1958年からは増加に転ずることになる。そしてこの役物の発明こそが、この後「第2期黄金時代」を生み出す画期的な発明「チューリップ」へと進化を遂げることになるのだ。

(以下、次号)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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