「変化を受け入れ生きていく、50年前より笑えるように」ORANGE RANGEのYOHさん 沖縄・日本復帰50年、連続インタビュー(1)

ORANGE RANGEのYOHさん

 人気バンド「ORANGE RANGE」でベースを担当するYOHさんは、米軍嘉手納基地に隣接する街で生まれ育った。米国文化から影響を受けつつも、今なお続く米軍絡みの事件には「一県民として悲しみを隠せない」と話す。沖縄の日本復帰50年をテーマにした楽曲をリリースしたばかりの今、改めて沖縄の歴史と向き合ったYOHさんの思いとは。(共同通信=渡具知萌絵)

 ▽自分の中のいろんな声

 ―身近にある米軍基地をどう思っていましたか。

 軍人と友好的な関係を築けるケースもあれば、悲しい事件につながることもあります。今でも事件が起きるたび、人ごとと思えず、いたたまれない気持ちになってしまいます。かつて地元では、ペイデイ(給与日)の週末の夜に隊員たちが外に出てきて、飲んだり騒いだり。にぎやかだと思う一方、何かトラブルに巻き込まれるかもしれないという一抹の不安のようなものをこれまでずっと感じ続けてきたのも事実です。自分の中でもいろんな声が乱立しているのが現状ですね。

 ―アーティストとして、基地問題に触れることへの抵抗感はないですか。

 「政治的発言」と言われることもありますが、そんな意識は全くありません。一県民としてクエスチョンがあるから聞いてくれないか、という気持ちです。自分の中では、やはり悲しい事件が大きくて。現代でこれが起きるのかと思ってしまいます。疑問に感じたり、許せない気持ちにもなったりますが、繰り返しふたをする状態が続いていますね。問題の解決はできなくても、せめて被害者や遺族に寄り添えるような形が見つかってほしいです。

 ―2010年にリリースしたアルバムの一曲「風灯らす」で、「この美しい島は誰のものだろう そう誰のものでもない 奪い合いの寂しさ」と、基地と共存してきた複雑な感情が歌われていますが、どのような思いを込めたのでしょうか。

 一人きりでスタジオに入って曲の大枠が見えてきた段階で、米国と沖縄県の境界線とされているフェンスが描写として頭の中に出てきたんです。「中に入ってはいけないんだ。でもこのルールは何なんだろう。同じ人間なのに」。ずっと日常で感じていた疑問を作詞で膨らませていった感じですね。

 ―基地のある風景には、いつから疑問を抱いていたんですか。 

 

 幼少期からです。幼いながらに「何で住む場所が分けられてるんだろう?」って。思い出話をすると、小学1、2年生の時に学校生活になじめず「学校に行きたくない」とごねていたら、父親が突然帰ってきました。話を聞くなり「分かった。今日は学校休め」とだけ言って、嘉手納基地のフェンス沿いにあるパーラーに連れて行かれたんです。「イーグル」と呼ばれるF15戦闘機が爆音で頭上を横切っていく様を2人で見上げながら「大変かもしれないけど、青い空も受け入れながら、まあがんばろうよ」って。そんな記憶が鮮明に残っています。対話を通して活路を見いだせる道があるのなら、その余白は用意しておきたいと考えています。

 ▽おとぎ話にはしたくない

 ―沖縄戦について、家族から伝え聞いていることはありますか。

 小学生の頃によく母方の祖父母の家に預けられていて、戦争体験を聞きましたね。頭上を弾が飛び交ったことや、友だちを踏みつけてまで逃げないといけなかったことなど、まだ子どもだった自分にわかりやすい言葉で説明してくれました。その母方の祖父母が亡くなった時に「直接体験を聞く機会がどんどん限られてきている」と感じて、まだ元気だった父方の祖父母の話を聞きにいったんです。祖父からは海外の戦線に配属されたときの話、祖母からは沖縄戦を経験して知った戦争の本当の恐ろしさについて聞きました。自分も大人になり、それぞれの言葉の意味などをしっかり理解できるようになったぶん、より内容をくみ取ることができました。

 ―戦争体験者として、今の沖縄をどう思うか話してくれましたか。

 孫としては明確な答えというか、どう生きていったらいいのかを聞きたいですよね。でも、最後まで触れることはありませんでした。その後、父方の祖父母も亡くなってしまったんですけど、おそらく「自分たちで見つけなさい」ってメッセージだったんじゃないかなって。意見を押しつけるのではなく、次の世代がこれからの生き方を導き出していってほしいということだったんだと思います。別れ際にもらった「生きているうちにあなたに話せてよかったよ」という言葉が今も耳に残っています。

 ―戦争体験を語り継いでいこうと考えていますか。

 祖父母から聞いた話は県内の大学の講義に登壇させてもらった時などに触れるようにしています。おとぎ話ではなく、現実に起きたこととして今後も機会があれば伝えていきたいです。それを聞いて、学生が何かつかむものがあれば良いなと思っています。

 ▽50年前より笑っていて

ORANGE RANGE=21年12月、沖縄県の中央パークアベニュー(撮影:平野タカシ)

 ―最新曲「Melody」は、NHK沖縄放送局の「本土復帰50年」テーマソングとして制作されましたね。

 大学教授から復帰に至るまでの歴史を学んだり、復帰前の沖縄市を知る住民に話を聞いたり。曲のピース(かけら)になる部分を探るために、各自で取材をしました。

 ―YOHさんが、名護市嘉陽にある自然学校を訪れたのはなぜですか。

 東日本大震災を機に、名護市に移り住んだ家族からの紹介がきっかけです。震災という大きな出来事を共有した人から「絶対何か感じるものがあるから」と勧められ、突き動かされた感じです。

 ―訪れた際に感じたことはありますか。

 そこは米軍普天間飛行場の移設計画に揺れる辺野古に近い場所でした。余計な手が加えられていない、亜熱帯の自然がそのまま残っています。ニュースを見ていると移設問題がとても心配ですが、現場に近いやんばる(沖縄本島北部)に住む方々が問題を深く考えていった結果、「自然を大切にする気持ち」に行き着いたという話に心を打たれました。県民としてどう言葉を発していいのか、難しさが常につきまといますが、自分もそれくらいの覚悟で向き合えていたのだろうかと深く考えさせられましたね。

 ―歌詞には前向きな言葉が並ぶ中、YOHさんの意向を受けて「苦しみ抜いた 涙を拭いた あなたは怒りでさえ紐解いた」という文言が入っていますよね。制作する上でこだわったことは何ですか。

 祖父母から聞いた沖縄戦の体験談に加えて、まだ幼かった時期に戦後の苦しい時代を過ごした親戚の話などにも触れていく過程で改めて歌詞を見返して気づくことがありました。「愛」という言葉が入っているのはいいけれど、彼らはそれだけでは片付けられない経験をしている。直接的な表現でなくても、その時の気持ちを僕らなりに拾っていく意識が必要だと思ったんです。

ORANGE RANGE=21年12月、沖縄県の泡瀬海岸(撮影:平野タカシ)

 ―最後に、今の沖縄は50年前の県民が思い描いた沖縄になっていると考えますか。

 米軍施設跡地に大型ショッピングモールが建設されたりして、復帰後の沖縄は経済的に豊かになりました。一方で、手つかずの自然が減り、かつての街並みも変わり、開発が進んだ今の沖縄を祖父母が見たら「こんなの沖縄じゃないよ」と笑われてしまうのかなって考えることがあります。それでも、きっと受け入れてくれると思います。その上でどう生きていくか考えなさいと。自分たちで変えられること、変えられないことがあるからと。そして、復帰後を生きる私たちに「50年前より笑っていて」と願っている気がしますね。悲しみで泣いているより、少しでも笑顔でいた方がいいから。

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 YOH(ヨウ) 1983年、沖縄県沖縄市生まれ。バンドの代表曲に「上海ハニー」「花」など。

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