詰められた袋から見えた黒い海「俺は殺される」 地村保志さん、富貴恵さんが拉致された夜 【2017年9月掲載】「拉致40年目の真実」

地村さん夫妻が男4人に拉致された小浜公園展望台。近くの海岸でボートに乗せられた=小浜市青井
地村さん夫妻が拉致された小浜公園の展望台(矢印)。右下の浜でボートに乗せられたとみられる=2002年10月撮影
2002年9月、鹿児島県・奄美大島沖で引き揚げられた北朝鮮工作船。地村さん夫妻も同じような船で北朝鮮に連行されたとみられる

 星空がきれいな1978年7月7日夜、福井県小浜市のレストランで食事を終えた同市の地村保志さん=当時(23)=と浜本富貴恵さん=同(23)=は、地村さんの軽トラックで標高67.2メートルの小浜公園展望台(同市青井)に向かった。七夕のデート。2人は1週間前に結納を交わし、秋に結婚することが決まっていた。

 頂上近くの道を、男4人が歩いて登っていくのが、窓越しに見えた。保志さんは関係者に「半袖のワイシャツみたいな服で、夏場の観光客のようだった」と話している。当時、展望台近くにはユースホステルがあったため、不自然な光景ではなかった。

 展望台付近に車を止めて、階段を上り、展望台の2階に行った。柵にもたれ下をのぞくと、外のベンチに座っているアベックが、さっきの4人に取り囲まれていた。追い払われるように、アベックは車に乗って去って行った。

 「様子がおかしい」と思った保志さんは、下の様子を確認するため、たばこを取りに車に戻った。展望台1階のベンチに座り、たばこを吸っている4人が見えた。

 保志さんはたばこを持って2階に戻ったが、嫌な予感がした。立ち上がって帰ろうとすると、4人が後ろに立っていた。階段を上る音など、近づく気配はまったく感じなかったという。

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 その瞬間、後ろに倒されうつぶせにされた。猿ぐつわのようなものを口にはめられ、保志さんは手錠、富貴恵さんは後ろ手に縛られた。足も縛られた。保志さんは頭を振って抵抗したため、地面に顔を擦った。そして、2人はそれぞれ麻のような袋をかぶせられた。うつぶせの状態で、男の肩に担がれて、斜面を下ろされた。

 保志さんは関係者に「動くたびに男の肩がみぞおちに入り苦しかった。自分が動こうとすると、手錠が締まっていく感覚があった」と打ち明けている。音と男たちの動きから推測すると、車道に出て、1台の車が通り過ぎるのを待って、浜まで下ろされた。

 息苦しそうにしている保志さんを見かねたらしく、口元付近の袋の布がナイフで切られた。そのすき間からわずかに見えた風景を保志さんは覚えているという。両端には岩、正面には真っ黒な海と、奥にはいさり火が光っていた。

 襲われてからここまでの間、2人は男たちの声を一言も聞いていない。まさに無言の犯行だった。

 公園でアベックが追い払われていることから、日本側の第三者が関与するなどした“狙い撃ち”だったようにもみえる。ただ、デート先に公園を選ぶことを予想できる人物がいるはずもなく、2人は自分たちに起こった悲劇を「偶然だろう」とみているという。

 小浜公園展望台から、袋詰めにされ近くの海岸まで運ばれた保志さん、富貴恵さんは、浜でゴムボートに空気を入れるような「シュッシュ」という音を聞いている。

 そして横たわるような態勢でゴムボートに乗せられた。ただ2人は「一緒に乗せられた感覚はなかった」とも話しており、別々のボートだった可能性もある。

 保志さんは関係者に「女性を狙った事件だと思った。俺はもう殺されるんじゃないかと思った」、富貴恵さんは「外国に売り飛ばされると思った」と語っている。北朝鮮による拉致と想像できるはずもなかった。

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 ボートから船へ、船から船へ。計2回乗り換えた。2人が船の中で顔を合わすことはなかった。ふわっと持ち上げられて別の船に移されるとき、保志さんは「海に放り投げられたと思った」、富貴恵さんは「殺されると思ったから抵抗しなかった」と、関係者に当時の恐怖を語っている。

 最後の船に乗り移ったとき、初めて袋から出された。服装や背格好から、公園で襲ってきた男は4人ともいた。そこで初めて男たちの声を聞いた。1人だけ、上手な日本語を話した。

 その男が、日本が拉致事件の実行犯として国際手配している辛光洙容疑者で、北朝鮮では「英雄」と称賛されてきた人物だと知ったのは、随分後になってからのことだ。

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 最後の船で2人は別々の部屋に入れられた。腰をかがめないと入れないほど天井が低く、一畳ほどの狭い部屋だった。「ここで休みなさい」と日本語で言われた。

 保志さんは、襲われたときに擦りむいた顔と、手錠で赤くなった手首に薬を塗られた。関係者には「扱いが粗末じゃないし、2回も乗り継ぐということは、単なる事件じゃないと思った」と話している。男同士が交わす言葉などから、外国に向かっているのではないかと感じ始めていた。

 翌朝、船のデッキで白米やキムチ、卵焼きなどの食事を時間をずらして出されたが、2人ともほとんど口をつけることはなかった。

 夕方、ある港で降ろされた。後に知ったことだが、そこは北朝鮮北東部の清津だった。2人は2台の車に乗って、別々の宿泊施設に連れて行かれた。屋根の造りなど建物の風情から、異国であることは明らかだった。そこで健康診断を受けた。翌日の夕方、2人は夜行列車に乗って、平壌駅に向かったが、その間も2人が会うことはなかった。「公園で一緒にいた人は、日本に置いてきた」と言われた。

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 地村さん夫妻が拉致されてから39年がすぎた。当時の拉致の状況、北朝鮮での生活、いまだ帰国を果たせない被害者家族の苦悩などを描く=2017年9月に掲載した連載を再アップしました。

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