米軍普天間飛行場に眠るご先祖様、「年1回」だけのお墓参りに同行した 沖縄日本復帰50年の現実

米軍普天間飛行場内にある先祖の墓を訪れ、手を合わせる比嘉和子さん(中央)ら=4月17日、沖縄県宜野湾市

 オスプレイや大型ヘリが次々と着陸する滑走路の誘導灯近くに、ポツポツと点在する古墳のような灰色の構造物。初めて金網越しに見た時、まさか墓だとは分からなかった。戦争で米軍に土地を強制接収された沖縄では、基地内に先祖の墓がある人も多い。家族であっても自由に立ち入ることはできず、季節行事に合わせて米軍に許可をもらう必要がある。フェンスの先で、「年1回」とされる墓参はどのように行われているのか。普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に入る住民に同行した。(共同通信=小向英孝)

 ▽制限時間付きの墓参り

 4月17日午前11時ごろ、宜野湾市大謝名。比嘉和子(ひが・かずこ)さん(73)が、自宅前に止めた車に重箱や草刈り用の道具を積み込んでいた。曇りがちでも差し込む日差しは強く、長袖だと汗ばむような気温。記者の私も車に同乗し、家族3人とともに慌ただしく出発した。

米軍普天間飛行場と手前に広がる住宅地=2021年3月20日、沖縄県宜野湾

 飛行場の西側、大山ゲートに近づくと、そばに迷彩服姿の米軍関係者が立っていた。車を降り、入場者全員分の運転免許証を渡すと、手元の名簿にある氏名と照らし合わせた。私も米軍に前もって取材で比嘉さんたちに同行することを伝え、申請を行っている。米軍関係者の腰にあった銃に気を取られているうちに確認が済んだ。「0900―1600」(午前9時から午後4時まで)と制限時間が印字された車両パスをもらい、ゲートを通過した。

米軍普天間飛行場のゲート。先祖の墓を訪れるために、米軍関係者の車両に交ざりながら、身分証明書を見せて通過した=4月17日、沖縄県宜野湾市

 墓までの道路は基地の外と変わらない左側通行で、米軍関係者が運転する「Yナンバー」の車両と何度かすれ違った。寮とみられる住居やテニスコートなどの施設がゆとりを持って立ち並び、ガードレールの外側には広大な芝生の土地が広がる。狭い路地が入り組み、多くの建物が肩を寄せ合う市街地とは対照的だ。オスプレイが並ぶ駐機場のそばを通り抜け、誘導灯の列が見えてきた。

 比嘉さんの先祖の墓は普天間飛行場の南側にある。戦後、近隣住民から買い取った土地だという。畑として利用し、その後墓を建てた。1960年代に米軍がフェンスを設置してから、自由に立ち入ることができなくなった。一帯には沖縄伝統の「亀甲墓」などが多く残る。

米軍普天間飛行場の敷地内で、先祖の墓に向かう比嘉和子さん(右)ら=4月17日、沖縄県宜野湾市

 ▽1年分の掃除

 車を降りた比嘉さんらはまず、墓にまとわりついた草を刈り始めた。1年ぶりの除草作業は、3人で手分けしても骨が折れ、会話の余裕すらない。墓上部に特に生い茂り、息子がよじ登って取り除く。風雨にさらされた花瓶の汚れも丁寧に落とした。花や線香を供える頃には、1時間が経過。ようやく墓前に重箱料理や果物を置き、じっと墓前で手を合わせた比嘉さんらは、「ウチカビ」と呼ばれる、お金を模した紙を燃やした。

軍普天間飛行場の敷地内にある先祖の墓を訪れ、生い茂った草を刈る比嘉和子さん=4月17日、沖縄県宜野湾市

 本来であればこの後、花見のようににぎやかな雰囲気で料理を楽しむという。「子どもはボールで遊んだりもする。ちょっとの間、お墓の前で楽しんで、子や孫の成長を(墓に眠る先祖に)見てもらう」。多い年で親族10人ほどが集まっていたが、新型コロナウイルスの感染が拡大した近年は、人数を抑えている。午後1時ごろ、静かに食べ終えた3人は車に荷物を片付け、帰途に就いた。

米軍普天間飛行場の敷地内にある先祖の墓で燃やされる「ウチカビ」=4月17日、沖縄県宜野湾市

 ▽「こんな墓には入りたくない」

 沖縄では旧暦の3月、墓前に親族が集まり先祖の供養と健康を願う「清明祭(シーミー)」があり、米軍はこの時期、先祖の墓が普天間飛行場内にある住民らの立ち入りを許可。事前に宜野湾市を通して、住所や通行車両のナンバーなどを届け出る必要がある。市基地渉外課によると、今年は295人が申請した。

 「なんで自分のお墓に行くのに、日時が決められているの」。1972年、沖縄が日本に復帰した同年に那覇から嫁いだ比嘉さんは、墓参の日程を知らせる地域の放送を聞いて衝撃を受けたという。当時、墓の場所がわからないほど雑草が生い茂り、かきわけながらの移動。米軍が周辺の草木を伐採してから、フェンスの外からも墓の様子が確認できるようになったが、1年分の草刈りや掃除を数時間で行う負担は年齢を重ねるごとに増す。「(初めて訪れた際)こんなお墓には入りたくないと言ったのに、この年になって入りそうなんですよね」

米軍普天間飛行場の敷地内にある先祖の墓を訪れ、手分けして掃除をする比嘉和子さん(手前左)ら家族=4月17日、沖縄県宜野湾市

 96年、当時の橋本龍太郎首相がモンデール駐日大使と普天間飛行場の全面返還合意を発表。その年のシーミーで、墓に眠るしゅうとめに「よかったね、フェンスが無くなるよ」と大喜びで報告した。それから26年、今も米軍基地は変わらず街の中心にある。「年に1回、決められた時間にしか行けない。こんな場所が他にありますか」

 ▽基地の方が後なのに

 「宜野湾市史」などによると、1944年の旧宜野湾村には約1万4000人が居住。現在、飛行場がある敷地は、少なくとも約2700人の住民が暮らした複数の集落を中心に、広範囲にわたる。民家の他に役場や国民学校もあったが、土地接収で大部分が失われた。

 沖縄戦で住民が避難したり、収容所に入れられたりしている間に、米軍は本土決戦に向け軍用滑走路を建設。60年5月、海兵隊の航空基地として運用を開始した。多くの集落が接収され、元の居住地に戻れなかった住民は、周辺の土地で暮らさざるを得なかった。飛行場の約9割は民有地で、住民の先祖の墓や集落の拝所が残る。

 一方で、交流サイト(SNS)上では根拠の無い投稿が後を絶たない。「普天間の周りには何もなかった」「基地ができてから人が移り住んだ」。まるで、住民が意図的に集まってきたかのような印象を与える言葉が並ぶ。「何から得たのか知らないけど、それ(うわさなど)をうのみにしている人が多い。情報が安易に拡散していることに驚きと憤りを感じる」

米軍普天間飛行場の敷地内で遊ぶ子どもたち。多くの家族がそれぞれの墓を訪れていた。手前右は比嘉和子さん=4月17日、沖縄県宜野湾市

 ▽知るきっかけに

 比嘉さんは、今回の取材を受けるかどうか悩んだという。基地が撤去され、墓へ自由に行き来できる日を望み、過去何度も取材を受けてきた。しかし、頼みの報道関係者からも「(基地内の墓に入るのが嫌なら)他の場所に移せばじゃないか」と言われたことがあるという。「(フェンスと墓の)どっちが先なの?」「私たちが出て行くべきなの?」。毎年のように同じ内容を話しても、墓がある現状や理解は広がらない。それでも、「今年は(沖縄復帰)50年の節目。言い続けないといけない」と承諾してくれた。「自分のお墓にも行けない人がいるんだということ、普通の生活の中でも被害があることを知ってほしい」

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