近鉄の新観光特急「あをによし」デビュー……種車「12200系」はどのような存在だったのか【コラム】

近鉄の新観光特急「あをによし」外観(写真:近鉄)

2022年4月29日(金・祝)、近鉄の新観光特急「あをによし」が運行を開始しました。古都・奈良を思わせるデザインに、ゆったりとしたくつろぎの車内空間を備えた4両編成の観光特急は、大阪・奈良・京都の三都を乗り換えなしで結びます。

車両名称の「あをによし」は 世界遺産や国宝が数多く存在する古都・奈良にかかる枕詞。デビュー当日は大阪難波駅で出発式が行われ、「この特急は、大阪、京都から奈良へ。また、将来はインバウンドの方に大阪、奈良、京都の三都を巡る交通手段として乗って楽しんでいただける特急になればと思っています」(近鉄 大内執行役員)と、本列車に期待される役割についても触れられました。

1・3・4号車に備わった1+1列のツインシートは、家具メーカーによる特注デザイン(写真:近鉄)
2号車のサロンシートは3~4名で利用できるグループ専用席で、プライベート空間らしくパーテーションで区切られています(写真:近鉄)
車内には販売カウンターも用意されており、奈良県産のスイーツや車内限定グッズなどが購入できます(写真:近鉄)
4号車のライブラリースペースでは、沿線に関する書籍を自由に閲覧できるようになっており、電車の中であることを忘れてしまいそうなほど……(写真:近鉄)

そんな新観光特急「あをによし」ですが、車両は新造されたものではありません。種車は近鉄を代表する特急型車両「12200系」の12256編成。英国のエリザベス女王も乗車したという、歴史の証人(証車?)とも言える車両を約3.3億円かけて改造しました。元になった「12200系」はどんな存在だったのでしょうか。

デビューは約半世紀前、「近鉄の顔」となった特急車両

12200系車両イメージ(画像:近鉄)

12200系がデビューしたのは1969(昭和44)年、今からおよそ半世紀ほど前のこと。

登場の背景にあるのが東海道新幹線の存在です。名古屋―大阪間の輸送は、1959(昭和34)年の名阪直通特急の運転開始以来、近鉄が約70%のシェアを誇っていました。この構図が東京オリンピックを目前に控えた1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線 東京―新大阪間の開業により一変します。

旅客は最新の乗りものである「新幹線」に流れ、近鉄は名阪間輸送で大きくシェアを落とすことに。スピード競争では新幹線に勝てない。近鉄は移動速度ではなく快適な空間やサービスの質を高めた「魅力ある特急列車」へと舵を切ります。

1967年には車内で飲食ができるよう「スナックコーナー」を設けた12000系(スナックカー)が登場。12200系はその改良型として2年後にデビューを果たします。同形式はその後、1976(昭和51)年までに近鉄特急史上最多を誇る168両が製造され、約半世紀にわたり近鉄特急の屋台骨を支えていきました。

基本的な性能は12000系に準じており、初期の編成では「スナックコーナー」も継承したことで「新スナックカー」と呼ばれるように。12200系は当時としては珍しかった電子レンジも搭載しており、立食も可能でした。もっとも、スナックコーナーは1980年代から始まるリニューアルで撤去され、代わりに8席の座席が設置されることになります。

座席には本格的なリクライニングシートを採用。シートピッチは98センチで、足元のヒータカバーを足載せ兼用とすることで寸法以上の空間を確保しています。リクライニングは製造当初より前方にスライドするタイプを採用しており、後ろの乗客に迷惑をかけないよう配慮されていたといいます。この考え方は最新の特急車両、80000系「ひのとり」のバックシェルにも通ずるものです。

12200系車内。シートは1990年代後半から始まった2回目のリニューアルで更新されています(2021年11月「12200系」ラストランツアー時に撮影)

走行性能にも目を向けてみましょう。12200系は設計当初から120km/h運転を想定していたそうで、当時の直流電車としては日本最大級の大容量モーター(180kW)を搭載していました。登坂性能も優秀で、近鉄大阪線にあるような33パーミルの連続上り勾配でも100km/h以上の速度で走行できるよう設計されていました。

編成はMc-Tcの2両編成を基本とし、最大で10両編成まで組成可能。利用者数に応じて多彩かつ自由度の高い運用が可能な「小回りの利く車両」でもありました。他系列とも併結可能、連結を前提とした正面貫通型ですが、幌収納カバーを採用することでスマートな外観にまとめられています。

12200系が登場した頃の日本は高度経済成長期であり、1970年には大阪万博も開催されます。近鉄はこれにあわせて特急ネットワークを整備・拡大し、東海道新幹線の名古屋駅や京都駅から伊勢方面への誘客を図ります。12200系はそうした近鉄特急網の拡大において中心的な役割を果たし、観光・通勤と様々な用途で活躍を続けてきたのでした。

余談ですが、12200系は当時の車両としては珍しく洋式トイレを採用していました。大阪万博で来日した訪日外国人客へのアピールという面もあったようです。しかしながら当時の利用実態としては、洋式トイレではなく和式トイレの方が埋まりがちだったそう。時代を感じる話です。

12200系は「憧れの存在」にして「同期」――元・近鉄名物広報マンに聞く

「12200系」ラストランツアー時に撮影(※「あをによし」に改造された編成ではありません)

2021年11月20日、定期運行からはすでに退いていた近鉄「12200系」特急のラストランツアーが開催され、同形式はその半世紀以上にわたる長い歴史に終止符を打ちました。

ラストランツアーには、元・近鉄の名物広報マンとして知られる福原稔浩さんも乗車されました。退職後もテレビやラジオ番組、講演会、旅行ツアーなどで精力的な活動を続ける福原さん。12200系についてお話を伺ったところ、入社当時は「憧れの存在」だったと言います。

元・近鉄名物広報マンの福原さん。2022年5月現在は歴史芸術文化村の総括責任者であり、王寺町観光広報大使も務めます。

福原さんが近鉄に入社されたのは1975(昭和50)年、大阪万博から5年後のこと。12200系はすでにデビュー6年目に入っており、名阪間をノンストップで走っていました。福原さんは当時、近鉄難波駅(現在の大阪難波駅)の駅員として働いていており、折り返す12200系の整備給水などを行っていたそうです。

「本来は車両部門の職員の仕事なんですけども、難波は折り返しですぐ出ていくので駅員がやっていたんですね。号車板を変更したり、床下の給水の弁を開いてホースで水を入れて、一定の整備が終わったらホームへ出ていく。そしたらホームにはもう名古屋へ行かれるお客さんがたくさんいらっしゃる」

「駅員を2年やって、急行や快速急行の車掌になりました。(当時)車庫に行くと12200系が停まっていた。いつかはこれに乗りたいという『憧れの存在』でした。頑張って2~3年で特急車掌になり、最初に乗った特急が12200系でした」

特急車掌から運転士になった福原さんは「12200系を運転したい」と考えていたそうですが、運転する機会はついぞ訪れませんでした。東大阪線(現在の近鉄けいはんな線)の開業運転士に選ばれたためです。福原さんはその後、駅の助役を経て広報へ。名物広報マンとして23年間にわたり活躍します。引退時期が12200系と重なったこともあり、今では「同期のような気持ち」も抱かれるそう。

「当時は列車の連結開放が多くて、車掌時代は『この駅で切り離しますよ』というのを何回も難波でやった。近鉄では乗務員と駅員さんが切り離しをする。ホームでやると、子供たちや鉄道ファンが見に来て、そういう光景も一つの名物になりました」

「東海道新幹線が大雨で止まったことがあります。当時の大阪名古屋間は通常2両のノンストップ特急で十分なんですけども、急に運転指令から連絡が入って『新大阪でお客さんがあふれている。名古屋方面へ帰れない』と。急遽2両編成に車庫から出た4両編成をつないで、さらに2両つないで8両で大阪難波駅を出発しました。こんなに大きな車両でも小回りが利く。お客さんが少ない時は2両。4両になったり10両になったりもする。(12200系は)エースではないですけども遊撃手でした」

1970年代には特別に整備され、貴賓列車にも使用された12200系。「オレンジと紺色」の伝統色をまとい、近鉄の特急網を支える代表的な車両として様々な局面で活躍を続けました。形式としては消滅しましたが、そのサービス精神や設計思想は80000系「ひのとり」などに引き継がれています。一部の編成は「あをによし」のように転用され、今なお近鉄線を走ります。

記事:一橋正浩

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