72年生まれ「復帰っ子」が作る沖縄の新たな地酒、ラム酒製造会社の金城祐子さん 沖縄・日本復帰50年インタビュー(3)

沖縄でラム酒をつくる酒造会社を立ち上げた金城祐子さん

 沖縄では、日本に復帰した1972年に生まれた子どもたちが「復帰っ子」と呼ばれ、新時代の象徴として注目を集めてきた。例えばお笑いコンビ「ガレッジセール」の2人もそう。復帰っ子は誕生から半世紀、温かく成長を見守られ、今では社会の中核として活躍する世代となった。そんな復帰っ子の一人、ラム酒をつくる会社を立ち上げた金城祐子さんは「大好きな沖縄の役に立ちたい」と目を輝かせ、独自のスタイルを貫くことが沖縄の発展につながると訴える。(共同通信=兼次亜衣子)

 ▽お酒好きが高じて…

 ―どうして沖縄でラム酒をつくろうと思ったのですか。

 もともとお酒が好きですが、地酒である泡盛を飲むことが多かったんです。2001年、友人とラム酒を飲んだ時に抱いた「沖縄ではサトウキビがたくさん採れるのに、なぜラム酒をつくらないのだろう」という素朴な疑問が始まりです。

 当時は携帯電話の販売会社で働いており、その親会社の沖縄電力が社内ベンチャーの企画を募っていたんです。「沖縄でラム酒づくりって面白いかもな」と応募し、採用されました。

 

グライス・ラムが製造したラム酒

 沖縄の伝統的な地酒は泡盛ですが、そこに参入するのではなく、新たなジャンルを切り開くことに魅力を感じました。元々は泡盛の杜氏で、沖縄県産のアセロラワインをつくった経験がある玉那覇力さんを口説き落として、ラム酒のつくり手になってもらいました。

 沖縄本島から東に約360キロのところにある南大東島で、サトウキビを原料にしたラム酒をつくる酒造会社「グレイス・ラム」を立ち上げたのは04年。沖縄県内でラム酒専用の酒造会社は初めてでした。

 ▽最初は「よそ者」扱い

 ―なぜ南大東島だったのですか。

 サトウキビ栽培が盛んで製糖業が有名だったからです。初めから南大東島しかないと決めていました。総面積約30平方キロの小さな島には、那覇市から食料や生活物資をたくさん載せた船が来ますが、帰りの積み荷はなし。その船に、新たな特産品としてラム酒を載せたいと思ったんです。

 ―南大東島での事業スタートはスムーズでしたか。 

 那覇で生まれ育った私は、最初はよそ者扱い。自宅がある那覇から何度も通い、村長に直談判したり、ラム酒づくりに使うサトウキビについて製糖会社の人と調整を続けたりしました。島の人と交流を重ねて、徐々に受け入れてもらえたと思います。

 ―ラム酒の評判はいかがですか。

 珍しい「沖縄産の無添加・無着色のラム酒」は県外でも人気で、海外にも進出しています。島に新たな産業が生まれたことで、工場を見学しに訪れる人も出てきました。工場はかつて空港だった建物に構えています。

 ▽大好きな沖縄を盛り上げたい

 ―金城さんも復帰っ子ですよね。

 

2022年3月3日、那覇市で撮影  沖縄でラム酒をつくる酒造会社を立ち上げた金城祐子さん

 はい。復帰っ子として誇りを持ち、故郷と一緒に歩み、年を重ねてきました。「大好きな沖縄の役に立ちたい」という意識は強いです。だからこそ「泡盛だけでなく、新しい地酒を生み出して盛り上げたい」という思いにつながりました。今では他の島にもラム酒製造が広がり、そちらも人気なのがうれしいです。

 ―沖縄の経済状況をどう見ていますか。

 経済の基幹となっている観光業は新型コロナウイルス禍で厳しい状況に追い込まれています。観光業はもちろん大切ですが、一つの産業に頼るだけでは立ちゆきません。今ある基盤を固めるだけでなく、新たな取り組みで盛り上げていく必要があります。グレイス・ラムの挑戦で、小さな島からでも新しいものを生み出せると伝えたいと思います。

 ―沖縄は今後、どんな道を歩むべきだと思いますか。

 地図上は日本でも、かつて琉球王国だった沖縄は「沖縄国」として独自のスタイルを貫く方がいいと思います。美しい自然に固有の文化、そして何より人の温かさが魅力です。本土と同一化することを目指すのではなく、持っているものを大切に生かしていけば、たくさんの可能性が出てくるはずです。

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 きんじょう・ゆうこ 1972年、那覇市生まれ。南大東村観光協会の会長も務める。

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