池田武邦さんと日本

 21歳の青年は顔に大やけどを負い、佐世保市の病院にいた。終戦の4カ月前のこと。傷が癒えた頃、針尾島から見た大村湾の青さは心に残り続けたという▲その少し前、佐世保で造られた日本軍の艦船「矢矧(やはぎ)」に乗っていた青年は、戦艦「大和」などと沖縄に向けて出撃したが、米軍機の攻撃で撃沈した。海に投げ出され、5時間ほど漂流した末に救出される。九死に一生を得て、佐世保で入院した▲「生かされた」と思い、戦後は建築の道に進む。超高層ビルの設計で名をはせたその人、池田武邦さんが残したものは、とてもここには書き切れない▲60歳を過ぎて、縁のある針尾島でとてつもない“まちづくり”に身を投じる。工業団地を造るはずがすっかり荒れ果てた土地で、まず土を入れ替える。40万本の木を植える。運河を通す…▲さらに生活排水を一切、海に流さないという高度な処理を巡らす。ハウステンボスはこうやって生まれた。池田さんはその頃からすでに「循環型社会、持続可能な社会に」と語っている▲戦争。戦後の開発時代。「技術と環境」が結び付いた社会。その一生は、日本がたどってきた道そのものだったろう。池田さんが98歳で亡くなった。西海市の旧宅「邦久庵(ほうきゅうあん)」では海に向かって、戦死した友人たちに鎮魂の祈りをささげ続けたという。(徹)


© 株式会社長崎新聞社