日本赤軍の「魔女」5月28日に20年の刑期満了、ついに出所 「革命」という言葉の魔力と学生運動、今の20代はどう見る

JR東京駅に到着した新幹線の車内で、報道陣に手を振る重信房子=2000年11月

 市民活動は考えていない。平和に穏やかに暮らしたい―。東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)に服役中の「魔女」は、出所を前に関係者にこう心境を語ったという。彼女の名は重信房子(76)。1970年代、「世界同時革命」を目指し数々の国際テロを起こしたとされる「日本赤軍」で最高幹部を務め、国内潜伏中の2000年に逮捕された。常人離れした人心掌握術を目の当たりにした仲間たちがつけた異名が魔女だった。5月28日、懲役20年の刑期満了を迎える。今後の動向に注目が集まる中、獄中でつづった今の気持ちや出所を待つ支援者らの思いを探った。(敬称略)(共同通信=黒木和磨、深江友樹)

 ▽好奇心もって楽しく生き続けようと思っています

 

重信房子受刑者が心情を記した手紙の写しの一部

 今春、一部支援者に届いた手紙には、小さな縦書きの文字でこう記されていた。「出所後は謝罪と感謝とリハビリと斗病(闘病)で一杯のようです」「過ちもありながら思い通りに生き斗い(闘い)得たこと、幸せな生き方だったと思っています」

 手紙には短歌もずらり。71年に中東に渡った当時や、前身組織・赤軍派時代に一緒だったメンバーが結成した「連合赤軍」のあさま山荘事件(1972年)を回顧した歌もあった。

 「雪山に倒れし友らの半世紀愚か者の革命哀しみ深し」(2月15日)
 「日本発ちて五十一年目の獄窓から壊れつつある世界を見つめる」(2月28日)

重信房子が短歌をつづった手紙の写し

 獄中から短歌や手記を支援誌「オリーブの樹」に寄稿し続けてきた。「抜群の記憶力で日記のように歌を詠む」と明かすのは代理人弁護士の大谷恭子(72)。重信は手紙で、作歌は「監視と規制に縛られた環境の中で、格子を越えて世界と自分に自由に巡り合うことのできる時間」だったと明かしている。

取材に応じる重信房子の代理人弁護士の大谷恭子=4月、東京

 重信はオランダのフランス大使館が武装占拠された74年のハーグ事件に関与した疑いで大阪府警に逮捕された。殺人未遂などの罪に問われた裁判では一貫して無罪を主張したが、2010年、実行役との共謀を認めた有罪判決が確定した。がんを患い服役中に複数回の手術を経験し、現在は東日本成人矯正医療センターに収容されている。手紙では「パレスチナ、アラブ社会の活動の苦しいいくつもの経験に較べ(比べ)たら、病気も悲観することもありません」「体力、知力は劣化を感じていますが、好奇心もって楽しく生き続けようと思っています」と心情を吐露している。

 逮捕翌年の01年、獄中で日本赤軍の解散を表明したが、今もメンバー7人が国際手配されている。警視庁は今年2月、情報提供を呼びかける動画を公開し「事件はまだ終わっていません」とのナレーションも加えた。

 手紙や寄稿の中で重信は、ロシアのウクライナ侵攻についても言及。「米・NATO(北大西洋条約機構)のロシアへの歴史的配慮の欠如が問題をつくり出してきたのも事実」とし、侵攻が始まった2月下旬には短歌も詠んだ。

 「イスラエルの占領許すバイデンのロシア批判のしらじらしさよ」(2月24日)
 「パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う」(2月25日)

 

重信房子に服役中の「特別改善指導」を行った片山徒有=4月、東京

 出所を前に「特別改善指導」を担当した片山徒有(65)によると、重信は出所後は「平和に穏やかに暮らしたい」と話していたという。ただ社会運動への復帰を望む支援者もいる。70代の男性は「支援者は高齢化したが彼女の出所までは生き続けようとしてきた人もいる。彼女の経験や見てきた世界を若い世代に伝えてほしい」

 ▽教師の夢捨て渡ったルビコン川

 ここで約半世紀前に日本赤軍が結成された背景を振り返る。65年、重信は、明治大に入学すると学生運動に没頭。ベトナム反戦運動を展開した共産主義者同盟(ブント)に加わり、学生らが機動隊と衝突した67年の「羽田闘争」にも参加する。当時の仲間は「救援部隊として催涙ガスの痛みに効くとされたカットレモンを配って走っていた」と回顧する。69年になると銃や爆弾による武装闘争を主張するブントのグループが分派して赤軍派を結成する。重信も道を共にし「教師になるという夢を捨て、『ルビコン川』を渡った」(日本赤軍関係者)

 

若い頃の重信房子

 だが次第にトップと闘争方針を巡り対立。革命拠点を海外に置く「国際根拠地論」を掲げ、71年に中東へ渡って日本赤軍を結成した。赤軍派はその後、別の組織と共闘し連合赤軍を結成。あさま山荘事件やリンチ殺人などを起こして世間に衝撃を与えた。

 この連合赤軍事件や、日本赤軍が起こしたイスラエル・テルアビブ空港乱射事件(72年)は、学生運動や新左翼運動に対する負のイメージを社会に植え付けた。60年代の高揚から一転して衰退を招いた要因の一つとされる。「革命という魔力に引き寄せられ、多くの仲間が志半ばで死んだ」。連合赤軍事件で仲間を亡くした男性はこう語る。

イスラエル・テルアビブの空港乱射事件の現場=1972年(UPI=共同)

 全共闘運動に参加した一般学生や活動家ら約450人に実施したアンケートを2019年にまとめた「続・全共闘白書」(情況出版)によると、重信を含むアンケート回答者の5割近くが「革命・社会変革」を「信じていた」。ただ重信はこの白書で自らの活動をこう振り返っている。「当時は、社会全体を変えようとする観点に欠け、運動の先鋭化に進みました」。夢を捨て「革命」を目指した末の言葉だった。

 「革命の魔力」とはなんだったのか。ある赤軍派関係者はこう説明した。「権力と闘う過程に夢や自由を感じ、世の中を変えられるかもしれないとの高揚感を抱かせてくれた。ただ時には命の犠牲もやむを得ないという錯覚を覚えさせる恐ろしいものだった」

 ▽「どうするんだ私は」現代の若者

 現代の若者には、過激な社会運動が活発化した60~70年代は「挫折」「失敗」として受け止められがちだ。それでもインターネットなどを活用し行動を起こす学生たちもいる。 

 「就活をぶっ壊す」。2020年11月、プラカードを持った学生がリクルート本社がある東京駅方面へ向けデモ行進をしていた。集まったのはツイッターでの呼びかけに応じた見知らぬ30人ほど。通行人の反応はほぼなかったが経団連の会館前でもアピールした。

 

東京都内で行われた就職活動の改善を求める活動=2020年11月

 企画した当時東京大4年の大学院生(25)は「1人で向き合ってきた不満に多くの人が賛同してくれると実感できた。いきなり社会を変えるのは難しいかもしれないが、行動の積み重ねで社会が変わる第一歩になるのでは」と話した。

 この大学院生は女性として生きるトランスジェンダー。自身の性を巡り、就活で差別的な経験を何度も受けた。反政権デモなどものぞいたが「安全保障や憲法など話が大きすぎた。自分の不満を体現してくれるものではなかった」。日本赤軍については「社会運動が人を傷つける過激なものというイメージをつくってしまった。目的が崇高だったとしても手段が正当化されるわけではない」と突き放す。ただ「ネットで声を上げても一過性で終わることが多い。継続させるには組織的な活動が重要」と考えている。

 過去の学生運動に向き合い、自問自答しつつ映像作品にした若い学生もいる。1969年に学園紛争が起きた関西大。池谷香乃(24)と土居りさ子(25)は2019年、ゼミの卒業制作でドキュメンタリー「昔、学生運動ってのがあった~怒りを忘れた若者たち~」を撮った。学生運動には暴力の印象があり、革命という言葉もピンとこなかったが、関係者を訪ね歩く中で戦争をまだ身近に感じる当時の学生らが権力への怒りを根源に闘っていたと知った。

 ベトナム戦争反対運動に携わった米国の男性へのインタビューで「若者になぜ怒りの感情がなくなったと思うか」と問うと「私は今でも怒りを覚えている」「あなたたちの生きている文化は愚かなものだ」と怒られた。ショックだったが「満たされた世代」の自分たちが悪いわけではないとの反感も覚えた。

 「政治に無関心で自分たちはいいのかとの危機感はあるし、選挙にも行くようになった。だけど社会運動で行動を起こそうとまでは思わない」と土居。作品は池谷のナレーションでこう締めくくる。「若者たちよ、さあどうする、と声高に言うのも恥ずかしいが、まずは私自身だ。どうするんだ、私は」

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