脳の手術から奇跡の復活、クレー射撃・中山由起枝の知られざる五輪物語 神経疾患「局所性ジストニア」と闘う

東京五輪クレー射撃女子トラップ予選後半の第4ラウンドを終え、笑顔を見せる中山由起枝=2021年7月29日、自衛隊朝霞訓練場

 「引き金」が引けない―。
 クレー射撃女子トラップの第一人者、中山由起枝さん(日立建機)は「私の命みたいなもの」と表現する銃の引き金を引く人さし指の異変に当初、心因性の「イップス」を疑った。多くのスポーツで自分の思い通りの動きができなくなる職業病だ。
 だが事態は思いもよらぬ方向へ暗転していく。脳神経外科で診断された結果は神経疾患の「局所性ジストニア」。繊細な反復運動を行う音楽家や書道家に多く発症し、脳の指令に障害が起こり、特定の動作で筋肉がこわばって動かなくなるのが特徴だ。
 絶望のどん底に突き落とされる中、五輪を断念するか、手術に踏み切るか―。周囲の反対を押し切って脳の手術を決断し、1年で復活を遂げた東京五輪。有終の美を飾った舞台裏には知られざる「奇跡の物語」があった。(共同通信=田村崇仁)

 ▽歌手の伍代夏子さんも公表した「ジストニア」

 2019年8月。今思えば、異変はその頃から起こっていた。当時は「熱中症の関係かな」と考えたが、引き金が突然引けないことが1回あった。同年11月のアジア選手権(ドーハ)で「崖っぷちからの逆転満塁ホームラン」と語る3位に入り、5度目の五輪代表を決めたものの、原因不明の不調を相談したメンタルトレーナーからも「イップスの症状」と言われていた。
 東京五輪イヤーの20年に入り、気分転換にイタリアまで遠征して新しい銃に道具を交換しても、日に日に銃を撃てなくなった。体が動かず、射撃場に行っても体幹を鍛える練習しかできない。何を試しても改善せず、やがて引き金が完全に引けなくなった。「選手として終わったな」。毎日、泣くしかなかった。
 そんな時、新型コロナウイルス感染拡大で東京五輪の1年延期が決まった。「他の選手には申し訳ないけど、ちょっと自分の中ではホッとした」と振り返る。「もうイップスじゃない、って分かっていた。私の体に何かが起きている」と確信めいたものがあった。

クレー射撃をする中山由起枝(本人提供)

 当時、たまたま見たテレビで「ジストニア」の症状のギタリストが放送されていた。「これも奇跡だった。その番組で紹介された専門医に聞こう」と直感的にメモした。
 20年6月、その専門医に受診すると「間違いなくジストニアです」と診断された。歌手の伍代夏子さんも喉のジストニア(けいれん性発声障害)を公表し、歌手活動を一時休止。長年にわたる精密な動作の反復の代償でピアニストやギタリストの指、管楽器奏者の唇、ドラマーの足、歌手の喉などあらゆる部位に発症する例があり、脳神経の異常と診断されるいわば「職業病」だった。

 ▽反対押し切り手術、術後もリハビリで苦闘

 このままだと引退するしかない。繰り返し練習すれば、症状は悪化の一途をたどる。だが日常生活に支障はなく、家族は手術に賛成しなかった。
 「もう4回五輪に行ったんだからいいんじゃないか」と父親は反対した。20年3月に再婚した夫で東京五輪男子トラップ代表の大山重隆さん(大山商事)は「夫としては反対。選手としてはもどかしい気持ちだった」と打ち明ける。大学生のまな娘、芽生さんは「東京五輪がやるかやらないか分からないのに、手術する必要ある?」と訴えた。
 主治医にも「1ミリ2ミリずれると、全く効果がない難しい手術」と説明されたが、集大成となる5度目の五輪を諦めきれない自分がいた。
 東京五輪の1年前となる20年7月。頭蓋骨にドリルで穴を開けて脳神経の修復を図る極めて難度の高い手術に踏み切った。再び引き金を引きたい一心だった。「言語障害とか違った障害が起こる」というリスクもゼロではない。ベストの状態に戻る保証もない。それでも覚悟を決め、病の恐怖と闘った。

2020年7月、脳の手術を受けた中山由起枝(本人提供)

 1時間程度の手術は無事に終えたが、術後のリハビリもまた想像以上の過酷さだった。「左の脳を手術したので、右半身が思うように言うことを聞かない」という初めての感覚に苦しんだ。右半身の感覚が戻らない分、バランスを崩して足首をよく捻挫した。文字も以前のようにすらすら書けず、箸もうまく持てないもどかしさに悩んだ。
 射撃の練習再開は翌8月、初心者並みのレベルからのスタートだった。引き金は引けたが、昔の感覚とは明らかに違う。「右利きの人が不器用な左手で射撃をしているようなもの」。目で見ている感覚と脳から指令が出るタイミングにずれが生じた。グリップの持ち方からして違う。理学療法士と地道なリハビリで機能回復に取り組み、回路を一から作り直さなければならなかった。
 「正直ぼろぼろだった」と心が折れそうになる苦境にも「中山由起枝ならできる」と言い聞かせる日々。埼玉栄高時代にソフトボール部の捕手として活躍した動体視力を買われて18歳で競技を始め、2000年シドニー五輪初出場から第一線で戦ってきた自負と集大成となる東京五輪への情熱だけが支えだった。

 ▽術後10カ月、五輪テスト大会で「射撃の神様」降臨

 負けたら東京五輪出場を辞退する覚悟で挑んだ21年5月の五輪テスト大会。1カ月前の合宿時のスコア表には25点満点中11点、18点、13点とトップ選手らしからぬ数字が並んだ。かつての自分とは明らかにほど遠い状態だった。
 身内以外は周囲にも秘密だった手術から10カ月。日本代表の永島宏泰監督にテスト大会の直前に思い切って全て打ち明けた。ぼろぼろ泣きながら「実は射撃場に立つだけで精いっぱい。成績次第で私は納得している。恨みはしないから(代表交代を)決めてね」と。
 すると、永島監督から「チーム中山由起枝」を作ろうと思わぬ提案があった。「何があってもサポートする。日本クレーをここまで引っ張ってきてくれた功労者。病気で駄目だからって、今切る必要はない。引き金が引けなくて棄権になってもいいよ。その責任は自分が取るから。とにかく今は1枚でも当たることを心がけてやろうよ。だから(代表を)辞めるとか、譲るとか、引くとかでなく、あなたが取ってきた権利なんだから、最後までやり通そう」。監督も号泣しながら、必死に勇気づけてくれた。

クレー射撃日本代表の永島監督(中央)と夫の大山重隆(左)、中山由起枝(本人提供)

 そんな曲折を経て迎えた五輪テスト大会。ここでまたしても「射撃の神様」が降臨する。積み上げてきた感覚は手術で失い、全盛期の実力は戻っていない。それでも反応の遅れをカバーするため、一撃に時間をかける新たなスタイルが奏功した。言葉では説明できない「奇跡的な射撃」で国内女子1位になり、日本代表としての自信を取り戻した。「諦めなくていいんだ。東京五輪、これで出ていいんだ」と自分の中で思えた瞬間だった。

 ▽夫と組んだ混合トラップは5位、金メダル以上の輝かしい価値

 それから2カ月後、日本女子の夏季最多出場に並ぶ5大会目となった東京五輪は完全燃焼した。
 女子トラップは19位に終わったが、モチベーションを維持する原動力となった夫と組む混合トラップでは計75発中74発を的中させる驚異的な射撃を披露。堂々の5位入賞を果たし「明日引き金が引けなくなっても、倒れても最後までやり遂げる気持ちがあった。あれほどの自分のパフォーマンスを超えることはない。楽しくて楽しくてしょうがなかった。自分が再び世界と戦えたことは、一生誇りに思いたい」と有終の美を飾った。

 中山と大山選手 東京五輪クレー射撃の混合トラップで夫の大山重隆(左)と臨んだ中山由起枝=21年7月、自衛隊朝霞訓練場

 無観客開催のため、会場に娘の姿はなかった。それでも家族で一緒に戦った。「メダルの次元じゃなくて、全部トータルでメダル以上のものが自分に返ってきた」とも付け加え、集大成の五輪は金メダル以上の輝かしい価値と受け止めた。

 ▽次の夢は家族で射撃学校

 射撃選手のジストニアは珍しく、脳の手術から1年で復帰し、五輪で活躍できたのは医学的にも例がなく、医学誌にも掲載されるという。
 山あり谷ありの射撃人生。5度出場した五輪は「こっちが逃げても、向こうが追いかけてくる。こっちが追いかけると、向こうが逃げていく」と恋愛関係のような不思議な魔力があった。そして最後の東京五輪は「家族みんなの宝物になった」という達成感がある。「射撃の神様がまた救ってくれた。最後に射撃を楽しむ、ってことを教えてくれたのかな」と中山さんは笑顔で振り返った。

娘の芽生さん(左)、夫の大山重隆さん(中央)と家族で記念撮影する中山由起枝さん(本人提供)

 今後は競技から離れ、社内の「人財」教育のほか、女性アスリートの環境整備に携わっていく。将来的には夫と一緒に射撃スクールの開校を目指す夢も広がる。
 「本当にやるの?」と何度も確認したそうだが、娘の芽生さんもクレー射撃の技能試験に合格。いつの日か、家族3人で射撃場に立ち、また射撃を楽しむ日が来るかもしれない。

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 中山 由起枝(なかやま・ゆきえ) クレー射撃女子の第一人者。ソフトボール選手として活躍した埼玉栄高を卒業後に入社した日立建機で競技を始め、00年シドニー大会で五輪初出場。結婚、出産を経て現役に復帰し、シングルマザーで長女芽生さんを育てながら08年北京五輪で4位に入賞した。12年ロンドン、16年リオデジャネイロ両五輪にも出場。東京大会で5度目の五輪代表となった。3度のワールドカップ優勝や13年世界選手権銀メダルなどの実績を残した。43歳。栃木県出身。

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