【読書亡羊】皇室を巡る「公と私」の軋轢 江森敬治『秋篠宮』(小学館) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

「あの時、出会わなければ……」

「そう、あの時、出会わなければ、私は現在でも独身だった可能性があります」

秋篠宮皇嗣殿下のこの発言を読んで、思わず一度本を閉じてしまった。紀子妃殿下との出会いについて語る、江森敬治『秋篠宮』(小学館)の一説だ。

なぜ驚いたのかと言えば、これが「世論一部から猛烈に反発を受けながら、なぜ眞子内親王が、小室圭氏との結婚を強行したのか」の答えになるように思えたからだ。

秋篠宮殿下と紀子妃殿下との出会いは、それは美しい物語のようだった。本書でも触れられているが、学習院大学構内の書店で初めてであった二人は、同じサークルに入り、紀子妃殿下は結婚前から東宮御所を訪問。現在の上皇陛下・美智子上皇后陛下から「キコちゃん」と呼ばれ、テニスやお茶を楽しんでいたという。

大学で出会い、その後結婚する。そうした両親のなれそめを、娘である眞子内親王が聞いていなかったはずはない。父との仲も良好だった眞子内親王が、自らの恋愛と両親のそれとを重ねていたとしてもおかしくはない。

「ここで結婚しておかなければ、私はこの先も独身のままの可能性がある」

秋篠宮殿下の冒頭の言葉は、そのまま眞子内親王に降り注いだのではないか。

ダメ押しの記述もある。筆者の江森氏は、眞子内親王の「結婚騒動」の最中に、秋篠宮殿下にこう尋ねている。

「なぜ眞子さまはここまで、この結婚にこだわるのでしょうか。眞子さまが、男性と知り合う機会は、これから先、まだまだ、たくさんあると思います。もっと素敵な人ときっと出会えますよ」

秋篠宮殿下は重い沈黙を続け、これに答えなかったというが、「他にも出会いはある」とほのめかす江森氏の言葉に〈「んっ」と一瞬、疑問を浮かべたような気がした〉という。それはそうだろう。冒頭に引いた言葉を思い出されたい。「その後の素敵な出会い」の可能性を、秋篠宮殿下自身が信じていない。

しかも秋篠宮殿下はかつて、江森氏に「学生時代に結婚相手を見つけないと、結婚は難しいですよ」と言ったことがあるというのだ。娘に向けたものではないが、何らかの形で伝わっていたかもしれない。それが娘を縛ったとは言わないが、「さすがに言霊の国のご皇族だ」と妙な納得を覚えてしまった。

「公と私」は共存してしかるべき

眞子内親王の結婚騒動は結果的に五年近い月日を費やした。結婚後も毎週、週刊誌の誌面をにぎわせている。関連報道でメディアが得た売り上げを計算すれば、小室圭氏の母がA氏から受けた援助の額と言われる「400万円」など微々たる額で、それより一桁も二桁も多かったに違いない。

秋篠宮家の結婚騒動は、一部からは「秋篠宮家の、公と私のはき違えで生じたものだ」との声もある。文藝春秋編『秋篠宮家と小室家』でも、ノンフィクション作家の保坂正康氏が〈俗事の騒動の顛末を目の当たりにして、もはや皇室の市民化というレベルではなく、「大衆化」と呼ばざるを得ない状況にまで来ていると痛感〉〈「開かれた皇室」の運命にこのような現実が待ち受けていたことに愕然〉と嘆く。

だがそれは当然のことながら、秋篠宮家だけの問題ではない。皇室だけでの問題でもなく、皇室を戴く日本社会そのものの問題でもある。

共存してしかるべき伝統という「公」と、そうはいっても皇族方も人間であるという「私」の概念の、整理もついていない。さらに言えば特に戦後の皇室が「民意によって支えられている」という国民と皇室双方の思いが、この「騒動」に拍車をかけてしまった面もある(この「民意」の相互利用については茂木謙之介『SNS天皇論』(講談社選書メチエ)に多く指摘がある)。

民意の一部は「眞子様の結婚をやめさせよう」と批判を強める。だが批判が強まれば強まるほど、眞子様は「後がない」状態に追い込まれもしただろう。まるで「北風と太陽」の寓話で、民意と眞子様の心理の間には、悪循環が生じていた。

「民意」という凶器

この『秋篠宮』は発売直後からアマゾンレビューが大荒れとなり、130を超えるレビューの8割以上が「★一つ」という最低評価になっている(執筆時点)。これは本そのものの評価を装ってはいるが、コメントを見ても分かるように大半が秋篠宮家に対する批判、長女の結婚騒動における秋篠宮家の対応への批判を示している。

確かに「将来の天皇の姉・義兄」となる人物の結婚だから、国民が気をもむのは無理もない。これは皇族方に対する「公」の面を重んじたからこその懸念だ。しかし、ここに国民からの「民意が支えているのだぞ」の面が顔を出すと、途端にその非難は凶暴なものとなる。「税金を払っているのは我々だぞ」と、およそ皇族方に向けるにふさわしくない言葉が、次から次へと飛び交うことになるのだ。

皇族方に相応の敬愛を抱いている筆者(梶原)からすると、いくら「皇室の将来を慮っているからこそ」だと前置きしているといえども、やはりこうした物言いには畏れ多さを感じざるを得ない。

しかもたちの悪いことに、「秋篠宮家問題」が「結婚問題」であり、つまるところ「お相手の家の借金問題」であるというゴシップ要素がこれに拍車をかける。「まるで一億総小姑だな」とかねて思っていたところ、東京大学資料編纂所所長の本郷恵子氏がまさにその言葉を使っていた(『天皇家と小室家』)。

以前、そうした「皇室の将来を憂う」という大義と、ゴシップ要素が合いまった視線にさらされていたのが皇太子妃殿下時代の雅子皇后妃殿下だった。当時は「廃太子を」「マイホーム天皇は要らない」「秋篠宮殿下、紀子妃殿下こそ理想の『天皇皇后両陛下』にふさわしい」とする論説まであった。愛子内親王に否定的な評価も少なくなかった。

しかし、だ。これが「天皇になる」ことの威力なのだろうか、元の東宮家に対する批判はすっかり鳴りを潜め、今度は「天皇家アゲ・愛子内親王アゲ」のオンパレードに変貌した。

詳しくは触れないが、この「上げ下げ」の摩擦が、ネット空間にかなり深刻な影響をもたらしていることは指摘しておきたい。分断をあえて煽っているかの書き込みも見られ、もはや「令和の南北朝」の様相である。

秋篠宮殿下の苦悩と葛藤

この江森氏の『秋篠宮』の帯には〈皇族である前に一人の人間である。〉とただ一言だけ書かれている。率直に言えばこの本は「人間・秋篠宮」に肉薄しているとはいいがたい。江森氏自身、妻が紀子妃殿下父・川嶋辰彦教授の助手だったことで、「純粋な取材者としての視点」を「通常の皇室記者」以上に欠いていることにも由来するのだろう。隔靴掻痒の感は否めない。

だが、それでも「一人の人間であることもご理解いただきたい」という秋篠宮殿下と、江森氏の共通意識は感じられる。次男坊として、将来天皇になられる長男をいわば支える立場だとわきまえてきた秋篠宮殿下。

兄に息子が生まれなかったことで「皇嗣殿下」となられ、将来の天皇となられる悠仁親王殿下を育てなければならない立場になった、その苦悩や葛藤の一端も見える。

「民意が支える皇室」であるがゆえの問題に悩む秋篠宮殿下の姿は、確かに「人間的」であらせられるのだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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