マリアの月に第一号を カトリック修道士 小崎登明

長崎へ上陸した三人の聖母の騎士たちは、大浦の司教館で早坂司教の帰りをひたすら待った。十日という日にちの、いかに長かったことか。五月になって、やっと出張中の司教は帰ってきた。帰宅は夜であった。帰るや否や、コルベ師は司教の部屋をたずねた。そして胸に温めていた計画をさらけ出すように、司教に打ちあけた。「私たちはポーランドから来ました。ポーランドに、ニエポカラノフと呼ばれるフランシスコ会の修道院があります。印刷所を持ち、聖母の騎士という雑誌を発行しています。長崎にもその支部を設けて、騎士誌を発行したいのです」

司教はまた司教で、自分の希望をもっていた。「大浦神学校の哲学の教師が空席です。教師をさがしに四国まで出かけたが、適当な人がいなかった。あなたは幸い哲学と神学の学位をもっておられるとか。講義をひきうけてくれませんか」

双方の希望が交わされた。そして双方とも了解した。これも神の摂理的な導きだったのであろう。早坂司教は聖母の騎士の支部の設置と聖母の小冊子の発行を許可し、コルベ師は哲学の教師となった。昭和五年五月五日のことである。

そうきまると、コルベ師は直ちに行動を開始した。五月はうるわしい母マリアの月である。この月の間にも念願の第一号を発行したい。雑誌はひとまず、司教館から発行している長崎教区の信者むけの新聞「カトリック教報」の付録として出されることになった。コルベ神父は、ラテン語とイタリア語で原稿を書く。「無原罪の聖母の騎士とは?」「サンタ・マリアの御像はどこ?」「幼きイエズスの聖女テレジア」など、思いつくままに筆を走らせた。幸いにも、神学校の司祭仲間や神学生らが、その原稿を訳してくれた。また海星学園のマリア会にも原稿を頼みに行った。マリア会は長崎では歴史の古い修道会で、大阪にも明星学園がある。「印刷機械を買うなら、大阪に紹介してあげよう」と院長はいってくれた。

コルベ師の行動は敏速である。金曜日から週末を利用して、汽車で大阪へ向かった。明星に泊まり、ドイツ人の修道士と機械を見に出かけた。手動式印刷機を六百五十円で買い、活字も十四万五千個、三百円で買ってすぐさまもどってきた。

神学校の講義もしなければならない。部屋は司教館から天主堂上の神学校に移った。自分たちの家もさがさなくてはならない。家さがしはゼノ修道士にまかせた。

「長崎で哲学を教えることはとても大切なことです。日本に八千万の人がいますが、八万から十万が信者です。そのうち六万人が長崎にいるのです。この神学校には、他教区の神学生もおり、日本の将来をになう若者に教えることは、なんと意義のある仕事でしょうか」と自信をもってコルベ師はポーランドあて書いている。

努力は実を結んだ。長崎上陸からちょうど一カ月目の五月二十四日に、待望の騎士誌第一号が一万部も発行された。驚異的な出来ごとだった。翌二十五日は日曜日だった。ミサが終わった大浦の街かどで、騎士誌をくばる外国人修道士の姿があった。雑誌をくばり、かわりに名刺をもらう。次号から雑誌を郵送するためであった。修道服がさわやかな春風にゆれて、まことに大浦らしい風景である。ゼノ修道士はいう。「十一時までに二百六十七冊くばりました。メモに書いてあります」

聖母文庫「長崎のコルベ神父」より

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