幼少期過ごした首里での記憶と嫌だった「ハーフ」 俳優・川平慈英さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>

 米統治下の「キャラウェイ旋風」が吹き荒れる1962年、俳優の川平慈英(59)=東京都在住=は琉球放送開局に携わった朝清の三男として那覇市に生まれた。72年夏、母ワンダリーの故郷である米カンザス州に留学するまで、米統治下の沖縄で幼少期を過ごした。

 慈英にとって、沖縄戦で焼失した首里城跡に建てられた琉球大学の校庭やサトウキビ畑、ガジュマルの森は格好の遊び場だった。幼なじみの「しげる」と、セミを捕って食べたり、メンコをしたり、色鮮やかな沖縄の風景とともに楽しい記憶として刻まれている。

 だが自宅があった首里から一歩出ると、慈英の容姿に心ない言葉が容赦なく浴びせられた。「おい、ハーフ」「ヒージャーの目」…。父は「おまえはハーフじゃない。ダブル(倍)だ」と、何度も説いた。「ハーフ」であることが嫌だった。

 日本復帰当時の記憶はおぼろげだ。ただ、世替わりで県内がごった返していて、大人たちがそわそわしていたことは覚えている。

 小学生だった慈英の目には、相対する県民の二つの姿が映っていた。「『なんくるないさぁ』という寛容さや同胞への温かさがあった半面、対戦争や対米軍になると『このままでいいのか』と沖縄の男たちの血潮が沸き立つ空気感があった」と語る。

 日本復帰の翌年73年、米国留学から沖縄に戻った慈英は次兄の謙慈と共に、両親と長兄の慈温(ジョン・カビラ)が待つ東京に渡った。すると、沖縄での生活環境から一変した。

 (文中敬称略)
 (問山栄恵)
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 1972年に沖縄が日本に復帰して半世紀。世替わりを沖縄と共に生きた著名人に迫る企画の24回目は、ミュージカルを中心に舞台などで活躍する川平慈英さん。年を重ねるほど募る沖縄への思いなどをひもとく。
▼「サッカー留学から俳優の道へ 父の講演に付き添い沖縄を意識 俳優・川平慈英さん(2)」へ続く
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